タールの害とストレスの害


 いまひとつ、やはりこのところちょくちょく脳裡へうかぶ五木寛之の一文がある。すなわち、敗戦後十三歳の夏からタバコを吸っていたけれど、あるとき呼吸が苦しくなってきて、以来まったく吸っていないというかれいわく、不思議なもので、タバコを吸う人がはやく死ぬとは限らない。ヘビースモーカーが肺ガンになっても、自業自得とおもえば納得がいく。若いころから一口も吸わなかった人が肺ガンになったときは、さぞかし不本意なことだろう。ただ、「努力して禁煙できた人を、私はエライとは思わない。そういう人は本来はタバコに縁のない人だったのである。病気が治らないのと同じように、タバコは止められない」

 で、とりわけわたしの目ざめの一服時に点滅するのは、さらにかれいわく、タバコは止めようとおもわないことだ。縁がなければ、いやでもやめる。やめないということは、十年か五年、命をちぢめて楽しいほうを選んだのだから、後悔しないほうがいいとのべ、かく説いているところだ。

 「一服おおきく吸って、フーッと長く深く吐く。おのずと腹式呼吸になっていると思えば気持も晴れるだろう。自分はいけないことをしている、とくよくよしながら吸うのが最悪なのだ。

 タバコも酒も、ときに緊張やストレスから人を解放する。タールの害と、ストレスの害とをはかりにかけて、『自分はこちらを選んでよかった』と安心すればよい。

 ちなみに、私はタバコを吸わないが、つれあいは医者だった人だけに、覚悟して楽しげに吸っている。そんなスモーカーは、見ていて気持ちがいいものだ」

 これまたまことにもっともなこの一節を含む五木の『養生の実技――つよいカラダでなく――』、イチイチくどいようだが、これも健康志向から感心、かつ想起されるわけではない。青春のころからわたしは、五木文学の熱心な愛読者のひとりで、これだって近年かれが盛んにやっている仏教論や人生論の一説として同感しているにすぎないのだから。

 ところで、この一節がよぎるたび、必ずといってよいほど連想してしまうことがある。なにかといえば、それがすなわち、ながくわたしに本読みの手ほどきをしてくれた亡き思想史家坂本多加雄のことだ。