茂木健一郎(脳科学者)

 違法薬物が、違法とされることには、それなりの根拠、合理性があると私は考えている。

 何よりも、違法薬物は、脳の回路を変えてしまう。通常ならば、努力したり、実際に身体を動かしたりしなければ放出されない「報酬物質」に類似の働きを持つ物質が、いとも簡単に脳内に出てしまう。つまり、薬物は、脳の回路が「ショート」するようなもので、そのことによって生じる依存症などの弊害は、無視できず、時に深刻である。

 そのような害をもたらす薬物を提供して利を得ようとする人々に刑事罰が課されるのは、合理的だろう。また、使用する側に対しても、結果として自分自身や社会に悪影響を与えるから、国家が薬物の所持や使用を刑事罰の対象とすることは、一つのアプローチとしてはあり得るだろう。

 もっとも、私自身は、ポルトガルが試みているように、薬物の使用、所持を非犯罪化して公衆衛生上の問題として扱うといったやり方にも、それなりの合理性があるし、より有効なケースもあると考えている。
警視庁から送検される元プロ野球選手の清原和博容疑者
=2月4日、東京都千代田区(撮影・今野顕)
警視庁から送検される元プロ野球選手の清原和博容疑者 =2月4日、東京都千代田区(撮影・今野顕)

 清原和博さんが覚醒剤の所持で逮捕された事件で、違法薬物の問題に社会的な関心が高まっている。これを機会に、日本における違法薬物規制、そして報道のあり方について、考えたい。

 違法薬物の問題から見えてくるある一つの対立軸がある。それは、国のあり方を考える時に、「個人の自由」と、「社会の秩序」のどちらをより重視するかという価値観の問題である。

 もちろん、個人の自由と社会の秩序は、必ずしも対立するものではない。ある程度の秩序がなければ、個人の自由は保証されない。17世紀に英国の思想家、トマス・ホッブズがその著書『リヴァイアサン』で展開した論によれば、そもそも、国家というものは個人の権利を守るために「社会契約」を通して形成されるものであり、刑罰が課される根拠もそこにある。

 しかし、個人の自由と社会の秩序のどちらを重視するか、というニュアンスの差のようなものは、やはりある。そして、今後の文明のあり方を考える時に、この微妙なニュアンスが、実は大切だと感じる。

 アジアは、違法薬物について厳しい地域だと認識している。中国やシンガポールなど、いくつかの国では、違法薬物を輸入しようとすると死刑が課せられる。私自身は死刑廃止論者であるが、それでも、もし仮に死刑が適用されるならば、殺人のような人の命を奪う犯罪に対してだろうと考えている。違法薬物も、社会に対して悪影響を与えるという意味では重大な犯罪につながるが、それにしても死刑を適用するというのは、個人的には行き過ぎだと思わざるを得ない。