「既読スルー問題」とライン

 しかし確かに、ラインは普及している。例えば私は、自分のスマートフォンに「ラインアプリ」をダウンロードしてからというもの、所謂「ケータイのメールアドレス」というものは虚無化した。

 いま、私の名刺にはラインIDと「ケータイのメールアドレス」の両方が印字されているが、私のケータイにEメールしてくる人物は、私自身が友無き無縁の人間であるという事実を差し引いても、まったくゼロである。次に名刺を増刷する際は、「ケータイのメールアドレス」の項目は削除しようと思う。どうあってもこのまま使わないからだ。

 昔はよく「メアド教えて(この場合のメールアドレスはケータイのメールアドレスを指す)」などといったものだが、今どきこんなことをいう人物はどこにも居ない。「ライン教えて」ときて、スマホ端末をプルプル上下に震わせるかバーコードを読めばすぐに「新しい友だちが追加されました」的なる通知がきて完了である。これが故に、「既読スルー」というのが、ライン時代になってからプチ問題化している。

 メールを「はがき」とすると、ラインのメッセージは「簡易書留」である。つまり、相手が確実に開封(既読)したかどうかが送信者側から即座に分かるシステムになっている。これが故に、「ラインでメッセージが届き、それを読んでいるはずなのに返答がない」ことを「既読スルー」などというのだそうだが、意味がわからない。

 私は、なぜそんなにライン上で返信がほしいのか、良くわからない。そんなに返信がほしいなら、文面の末尾に「返信ヲ要ス」「至急返信サレタシ」「ハハキトクスグカエレ」などとでも書けばいいと思うのだが、それをせず、何となく相手から返答が来るものだと期待していると一向に来ないので、それを「黙殺」と同義であると捉えて心象を悪くする人も多いという。

反復と老人

 そういえば、1990年代後半、私の高校の修学旅行の事を思い出した。宿泊先の旅館の部屋で、同級のM君が、当時最先端であった移動体通信からのネット接続「iモード」を契約したドコモの「ケータイ」端末を持って、右に行ったり左にいたりしながら顫動(せんどう)してたのである。

 何をしていたのかといえば、所謂、当時流行った「メル友」からの応答を待っているのである。当時の移動体通信からのネット接続には、現在のような早さはない。受送信に数秒かかるしその精度はなんとなく信用出来ないし、電波エリアも現在のように津々浦々ではない。政令指定都市の同じホテルの建物内でも、ほんの数メートルの差で電波が強、電波が微弱の差異が存在した。
 
 Mは常に部屋の中を歩きまわり、電波の良い場所を探して「メル友」からの応答を待っているのである。ハレの修学旅行の日にまで、「メル友」からの返信に四六時中拘泥しなければならないこいつはある種の中毒だ、と思った。私はMを馬鹿にしているのではない。90年代のEメールに「既読」の機能がないだけで、現在のライン使用者の少なくない部分は、Mの心象と大差ない。兎に角、相手から返答が欲しくて欲しくてたまらないのである。
 
 当時Mは多分童貞だったと思うが、別段オタクというわけでもないし、容姿も成績も中の上くらいだった。スクールカースト的には下よりも上から数えたほうが早いはずだが、そんな人間でも相手からの返答が欲しくてたまらず、動物園のオリの中に住む熱帯性の子グマのようにずっと狭い空間を反復しているのである。
 
 反復はある種の老化である。誤解されないように言っておくが、私は老化が悪いことだと言っているのではない。反復行為は老化の前衛だ、といっているのだ。とすれば、四六時中メル友からの返答を待っていたMも、「既読スルー」に24時間拘泥するある種のラインユーザーも、そして紙やネットの中でライン、ラインと繰り返す人間も、全部老人ということになる。そしてこういう老人とはあまり付き合いたいとは思わない。なぜなら、同じことの繰り返しは飽きるからだ。退屈ほどつまらないことはない。

 加齢で体が老いるのは仕方がないが、精神だけは老人になりたくないものだ。