LINEというインフラの正体は何なのか?


 イジメの事件の現場は今や学校ではなく、LINEの中で起きているのだ。また、不倫もLINEから暴かれている。LINEのなりすましによるギフトカードの詐欺事件にいたるまで、すべての悪の温床はLINEの中で発生しているかのような報道がなされている。しかし、「インフラ」というものは、いつの日にも、光と影を背負う宿命にある。

 たとえば、電話が登場したことによって「脅迫電話」や「誘拐電話」という新たな犯罪がスピーディーに生まれるようになった。刑事ドラマや映画では、犯人の電話の「逆探知」という捜査方法まで公開された。クルマの登場も、馬車の時代とは、はるかに違う死者数を生み出した。しかし、1970年代には年間1.6万人もの交通事故による死亡者も、2015年には4000人規模にまで落ち着いたのだ。これは人類の叡智のあらわれと技術の進化である。我々は便利さの裏側に常に発生する暗部とのトレードオフの関係に常に晒されているが、それを習慣や技術や法律によって変えることもできるのだ。

 LINEによって造られたインフラとは何だったのか? LINEはかつて「メディア」と「コミュニケーション」という分断されていた領域を、ズタズタに崩してしまったと言える。かつて、「メディア」はごく選ばれた一部の人のみが発信することを許され、一般人はその情報を受け、限られたクローズドな「コミュニケーション」の場で消費するだけで終わっていた。しかし、LINEのようなパーソナルでクローズドでプライベートだった空間がいつしか勝手に「メディア」化し、個別の「コミュニケーション」と絡まったまま肥大化し増幅し、大事件にまで至るようになってしまった。それを「従来型のメディア」がさらに報道し、加熱させ、さらにまた、コミュニケーションと複雑に絡まり合いながら「メディア化」していくのである。大人たちは、LINEを日常的に使いながらも、子どもたちの世界でのLINEの普及の怖さに怯えるというまさに「ディスラプト(破壊)」されたコミュニケーションの状態とも言える日常となった。

 そこにはノイズもデマも、嫉妬もやっかみも、リスペクトもdisリスペクトも、カオスの状態で蠢き合っている。人類の「カルマ=業」が渦巻いているといってもいいだろう。何よりも、指数関数的にコストが低廉化したことにより、誰もが無尽蔵に無秩序に感情をぶちまけあっているのだ。さらにスマートフォンというデバイスが「おしゃべり」から「調べ物」「連絡」「議論」「協調」…などの知的だった行為をすべて包含してしまっているから、まさにコミュニケーションの玉石混交状態なのである。LINEは個別でバラバラで行われていたコミュニケーションを統合化したインフラになってしまったのである。

 それと同時に、そのインフラの世界に麻薬的に依存してしまう傾向の人たちが多くなった。一部のコミュニティーでは、本来の生活よりもLINEのクローズドな生活の方がリアル世界よりも現実的だったりもする。しかし、それを選択し依存しているのはあくまでも自分自身である。また、親や友達、ご近所、学校を越えたコミュニティが、若年層の世界に突如として出現したのだから、誰も対応方法の経験値を持ち合わせていない。親も先生たちも困惑するばかりだ。本当は自分自身の立ち位置を明確にし、情報に溺れないためには、LINEに依存しなくても生きていける自分自身が必要なのだ。…といってもまだまだ進化する黎明期のメディアであり、最適解が存在しない。本当のLINEの進化を未来から見返してみると、きっと黎明期の頃のドタバタに映ることだろう。

 「LINEはバカと暇人のもの」という本テーマを紐解くと、その責任はインフラ側にあるのではなく、利用する側のリテラシーに完全にあると思う。

 それと同時に「長電話はバカと暇人のもの」や「テレビの長時間視聴はバカと暇人のもの」と言われなくなったのは、それらが完全に当たり前となり、認識され、理解されてしまったからだ。「インターネットはバカと暇人のもの」とも言われなくなっても久しい。それは、「使い方次第」だったことを皆が理解しているからだ。

 あえていうならば、「馬鹿と鋏は使いよう」を習い、「馬鹿とLINEは使いよう」のほうが適切なレトリックなのかもしれない。どんな使えなかったハサミでも賢く工夫さえすれば、うまく使えるようになるものだ。ネガティブに否定するのは簡単だが、ポジティブに前向きに良い面を活用することによって、この「LINE」というインフラをうまく乗りこなしてほしいと願う。