17歳少女をリンチしたLINEトモダチの「承認競争」

『土井隆義』

読了まで8分

土井隆義(筑波大学人文社会系教授)

同質な仲間とつながるツール


 インターネットは、世界中に散らばる多種多様な人びとが、時間と空間の隔たりを超えて、互いにつながりあうことを可能にした開放的なシステムである。しかし昨今は、世界観や価値観を同じくする仲間が、時間と空間の制約を超えて、互いにつながり続けることを容易にする閉鎖的なシステムとして使われる機会も多くなっている。携帯電話やスマートフォンといったモバイル機器を情報端末として用いる場合には、さらにその傾向が著しい。その意味で、現在のネットは、異質な他者とつながる装置ではなく、同質な他者とつながる装置ともいえる。

 現在、若者たちの多くは、学校生活など日々のリアルな人間関係をマネージメントするツールとして、ネットを活用している。LINEはその典型である。しかし、そこでの人間関係に不全感を抱える若者たちも、またネット上に代替の人間関係を求めている。LINEは、その道具としても駆使される。いわゆるID交換によって、見知らぬ他者とつながることも可能だからである。彼らは、しばしばLINE民と呼ばれる。そこが生活の基盤となっている様子から、LINEの住民といった意味で用いられる。

 日常のリアルな仲間をマネージメントするためにLINEを駆使する若者たちも、またそれを代替してくれる仲間をネット上に求めてLINEを駆使する若者たちも、人間関係に対して強いこだわりを持っているという点では、互いにまったく同じ心理的特性を有している。しばしばネット依存やLINE依存と呼ばれる問題も、ここから生じてくる。それは、ネットゲームや動画などのコンテンツから抜け出せない依存のメカニズムとはまったく違う。
 彼らの多くがつねにネットに接続し、ネットへの接続を切断できずにいるのは、けっして快楽に押し流されてのことではない。もちろん、仲間と接続しつづけることに快楽の要素がまったくないわけではない。とりわけネットの利用を始めた当初は、その要素も大きいと考えられる。しかし、日夜ネットを利用しつづけ、その常時接続にやがて疲弊感が募っていっても、もはや接続機器を手放せなくなってしまうのは、けっして快楽の強さからではない。むしろ不安の強さからである。自分だけが仲間から外されるのではないかという恐怖から手放せないのである。
人間関係の流動化が進む現代

人間関係の流動化が進む現代


 LINEの「既読」表示は、東日本大震災時の経験から、受信者が返事を出せるような状況になくても、とりあえずメッセージを読んだことだけは送信者に分かるようにと考案された機能である。しかし、若者たちの多くは、むしろ「既読」表示があるからこそ、返事をすぐに送らないと相手に悪いと感じ、不安に駆られてしまうという。アプリの開発側の想定からすれば、見事なまでに反転した使用法が見受けられるのは、何か具体的な用件を伝えるための道具としてはでなく、つながっていることそれ自体を確認しあうための道具として、LINEが駆使されているからである。

 今日では、人間関係の流動化とインターネットの発達が相まって、既存の組織に縛られない自由な交友関係を築きやすくなっている。制度上の制約から不本意な相手との関係を強制されるような事態は減ってきた。しかし、そうやって実現した軽やかな人間関係は、他面では脆く壊れやすいという面も併せ持っている。制度的な枠組みが人間関係をかつてほど強力に拘束しなくなったということは、裏を返せば、それだけ制度的な枠組みが人間関係を保証してくれる基盤ではなくなったことも意味するからである。

 このように今日では、人間関係が自由になったことの代償として、その不安定さも増してきている。既存の組織や制度に縛られることなく、付きあう相手を勝手に選べる自由は、自分だけではなく相手も持っている。したがって、自分が仲間を選ぶ自由は、仲間が自分を選んでくれないかもしれないリスクと表裏一体である。互いに仲間であることの根拠は、互いにそう思っている気持ちの共有にしかありえない。その親密さをつねに確認しつづけていないと維持していくことの難しい関係であるため、絶えざる不安のスパイラルへと陥っていきやすい。

 このような事態が進んできた結果、安定した自己承認を仲間から得ることは、今日の社会ではむしろ難しくなっている。そんな状況下で少しでも安定した人間関係を営み、自己承認を受けつづけるためには、できるだけ価値観の似通った者どうしで仲間関係を保持しておいたほうが得策である。人間関係の流動性が高まった社会のなかで、しかし同質な相手だけを探してつながり、互いに分断化された世界を生きるようになってきたのはそのためである。冒頭で述べたように、ネットもまたそのためのツールとして駆使されている。それは、少しでも安定した自己承認を得るための防衛策なのである。
自己承認欲求を強める現代人

自己承認欲求を強める現代人


 しかし、それでも互いの不安が完全に払拭されることはない。とりわけネットを介した人間関係では、全人格的に付きあうことが難しく、断片化した情報を継ぎ合わせながら、期待されるキャラを互いに演じあうことに陥りがちである。したがって、そこで得られる自己承認には、その程度の重さしかなくなってしまう。このとき、互いに一致団結して焦点を定めることのできるターゲットをどこかに作ってやれば、一時的ではあるにせよ、それを核にして人間関係は安定しやすく、自己承認も受けやすくなる。しかし、グループ間の分断化が進行し、互いに異なった世界を生きるようになった現代では、グループの外部にそのターゲットを見つけることが難しい。そのため、しばしばグループの内部にターゲットを探し、そこで暴行事件やいじめ事件が発生しやすくなる。
 このように見てくると、グループの内部で、たとえ被害に遭ってもその状況から逃げ出せない者だけでなく、じつはその加害の側に回っている者たちも、また同様に自己承認への不安を抱えていることが分かる。互いのまなざしを集中させるターゲットをどこかに作ってやれば、集団内における自分たちの居場所は確保される。そのターゲットをネタにいじり回すことで、互いが円滑にキャラを演じる舞台も用意される。共通の関心対象がそのターゲットへ集中されるので、自分たちの不安が一時的にでも和らぎ、関係を維持していくことも容易になるのである。

 グループ内での暴行事件やいじめ事件で、加害側がつねに気にかけているのは、同じグループ内の他の者たちの反応である。被害者をターゲットにしながらも、しかしその反応をじっと凝視しているわけではない。ともかく自分たちが周囲から承認を得るために、仲間のウケを狙うことに必死で、被害者のことはじつは二の次なのである。そのため、自分たちの行為が被害者に及ぼしているダメージの大きさにまで目が届かないことも多い。

 これらの暴行事件やいじめ事件でエスカレートしているのは、じつは被害者への攻撃衝動ではなく、むしろ加害側にいる者たちの承認競争である。ネット上で発生する関係トラブルの多くは、道徳意識が低下した結果ではなく、互いの承認不安から生ずる集団的な自傷行為のようなものである。狭い仲間内で繰り広げられる承認競争の結果、内部での規範意識はむしろ高まっており、そこからわずかでも外れた者が攻撃対象として選択される。むしろそうやって内閉化し、独善化した規範意識の発露としてこそ、これらの事件は理解されるべきものである。

この記事の関連テーマ

タグ

LINEはバカと暇人のもの

このテーマを見る