橋場日月(作家)

 「上杉勢に備えるため、海士淵に大兵を集められる城を築くことこそが肝要」

 真田昌幸の主張に、徳川家康は急ぎ支援を行ない、結果、完成したのが上田城だった。一方、昌幸は北条勢を追い払って沼田城も取り戻し、東西に大城を擁することになる。

 ところが家康から沼田割譲を打診されると、昌幸は迷うことなく手切れを選ぶのだった。

北条氏への帰順


 天正10年(1582)6月2日、京で本能寺の変勃発。天下統一を目前にしていた織田信長は、非業の死をとげた。その知らせが京から350キロほど離れた信濃国真田郷の真田昌幸に届いたのは、いつ頃だっただろうか。

 織田家の関東方面司令官・滝川一益が自主的に昌幸らに情報公開したという話もあるが(『加沢記 』)、それが事実でなくとも関東の雄・北条氏直が変を知って一益に問い合わせの書状を発したのが11日だから、その頃には昌幸も知っていたものと思われる。18日、彼は叔父の曾孫にあたる鎌原重春に対して、こう書き送った。

 「今般御指図に任せ、出陣せしめ候の条、存分の如くに於いては、御領分の内に於いて千貫文の所進め置くべく候」

 武田氏に仕えていた重春はその滅亡後、真田氏に属するようになっていたが、その重春に対して昌幸は「勝てば千貫文の土地を与える」と督励しているわけだ。一益は18日に北条氏直方と戦闘状態に入るのだが、書状における「御指図」とは、そのための動員を支配下の昌幸にかけたものだと思われる。

 だが19日、神流川の戦いで一益勢1万8千は氏直勢5万に完敗し、一益は本領の伊勢に逃げ帰ることになる。このとき昌幸は厩橋城で一益と別れの酒宴に参加し、一益に護衛をつけて木曽路まで送らせたという。昌幸の温かい人間性ともとれるが、彼の行動は一筋縄ではいかない。一益を見送る一方で、昌幸は信濃小県・西上野の国人領主たちに対する所領宛行を矢継ぎ早に実行しはじめたのだ。これは寄騎(指揮下にはあるが本来同格の武士)たちを被官化する方策といえる。

 「信長も一益も、我が頭上から命令する者はいなくなった。今のうちに皆を糾合して動乱に対応できるようにせねばならぬ!」
窮地に陥った真田信繁らの前に現れた昌幸
 信長の死によって旧武田領国の甲斐・信濃・西上野が無主の地となり、「天正壬午の乱」と呼ばれる大風が吹き荒れはじめる。昌幸の闘志はこの風にあおられ激しく燃え上がった。

 一益は上野を去る際、昌幸に沼田城を返還していたが、昌幸は叔父の矢沢頼綱に沼田城代を命じ、湯本三郎右衛門に岩櫃城(別名・吾妻城)の守備を指示する。上田から鳥居峠越えで岩櫃、名胡桃、沼田と連絡するラインを固めようというのだ。そして、沼田城に入った頼綱はさっそく部下に命じ、10キロほども南に下った津久田城を攻撃させる。

 この城は北条方の長尾憲景(上野国白井・八崎の城主)の属城だったのだが、攻撃は失敗してしまった。北条方は勢いに乗り、岩櫃城と沼田城を分断すべく憲景に指示してその間の中山城を攻め落とさせ、さらに中山新城を築かせた。岩櫃と沼田の連絡路が遮断されると、昌幸としては分が悪い。

 実は昌幸はすでに3月、武田氏が危急存亡のときを迎えているときに憲景を通じ、2度にわたって北条氏への帰順を打診していた。そして武田勝頼が自刃した翌12日には北条氏邦から昌幸の申し入れを歓迎する旨、書状が発せられている。この交渉窓口はまだ生きており、憲景は昌幸に圧力を加えながらも外交チャンネルを活かして帰順を促がしていたのだろう。

 その実務を担ったのは、日置五左衛門尉(五右衛門尉とも)という人物だった。五左衛門は昌幸の命令を受けて北条氏の陣におもむき、「麾下に属すべき由」を申し入れた(『信濃松代真田家譜(乾)』)。氏直がどれほど喜んだかは、彼がこの五左衛門に西上野の小島郷を与えたことでもわかる。