門田隆将(ノンフィクション作家)




 Aは、何が書きたかったのか。

 私は、太田出版から発売された酒鬼薔薇聖斗こと「元少年A」の手記『絶歌』を読み終えて、そのことが頭から離れなかった。

 あれほど無惨な犯罪を起こした人間が、世間に何を問おうとしているのか。そして、そこに書かれているのは、果たして真実なのか。

 私には、肝心かなめの「核心」が書かれていないこの本に、さまざまな疑念と感慨が湧き起こった。

 自己陶酔と自己顕示欲。読み終えた私に、この二つの言葉が浮かんできた。しかし、賛否両論の中、同書は初版十万部に続いて、五万部の増刷が決定された(六月十八日時点)。それは事件の遺族が「本の回収」を求める中での出版社側の“強行策”にほかならなかった。

 私が「本に書かれていない」と言う「核心」とは何か。

 それは、あの犯罪が果たして「人間の行為」だったのか、という根本的な問いかけにほかならない。

神戸連続児童殺傷事件の元少年Aが出版した手記『絶歌』
神戸連続児童殺傷事件の元少年Aが出版した手記『絶歌』
 人間というのは、恨みや怒りによって、時に人の道を踏み外して、絶対に犯してはならない「殺人事件」を引き起こすことがある。その理不尽な事件が日々、報道され、世間はそれに眉を顰める。しかし、酒鬼薔薇事件は、それとはまったく異なるものだった。恨みや怒りではなく、ただ快楽のために「殺すこと」を目的とした弱者抹殺の殺人行為だ。

 人間と動物との決定的な違いは何か、と問われれば、私は「憐憫の情」と答える。生きるためにハンターとしてほかの生き物を捕食する動物には、憐憫の情がない。生きるために「食らうこと」に必死で、そんな情が入り込む余地は存在しない。

 しかし、人間は、憐みの気持ちを持つ生き物だ。時に道を踏み外すことはあっても、それでも殺人事件という絶対悪に対してさえ、まだ人間的な理由がある。だが、Aは、自らが得る快楽のために殺すことだけを目的とした事件を起こした。そこには、人間が持つ憐憫の情というものが皆無で、それは今も変わっていない。事件から十八年が経ってなお、Aは本の出版によって、残された被害者遺族に想像もできないような無惨な苦悩と哀しみを新たに与えたのである。

 一九九七年五月、酒鬼薔薇事件は起こった。神戸市須磨区の友が丘中学の正門前で、小学五年生の土師淳君(11)=当時、以下同=の切断された頭部が発見された。

〈さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜共には死の制裁を 積年の大怨に流血の裁きを〉

 淳君の口には、〈酒鬼薔薇聖斗〉の名前で、そんな犯行声明文が咥えさせられていた。淳君は頭部を切断されただけでなく、口の両端を耳の近くまで切り裂かれ、両まぶたにバッテンの傷までつけられていた。『絶歌』には、
〈この磨硝子の向こうで、僕は殺人よりも更に悍ましい行為に及んだ〉

 としか触れられていない。それは、およそ「人間」の行為とは思えない。約一か月後に逮捕された十四歳の少年Aは、二か月前には小学四年生の山下彩花ちゃん(10)を金づちで殴り殺し、さらにその一か月前には、女児にハンマーで重傷を負わせていた。

『絶歌』には、これらの事件に至るまでの「ナメクジの解剖」や、猫を殺すさまが、この上なく緻密な筆法で描きだされている。胸が悪くなるほどのリアルさであり、類いまれなAの筆力を感じさせる。

 自分より弱いものを容赦なく殺す。しかも、それは何かの「儀式」に違いなかった。それは、彼が日記に残し、そして崇拝してやまなかったというバモイドオキ神への“生贄”でもあったのだろう。しかし、このバモイドオキ神への生贄と儀式についての記述はない。

 人としての憐憫の情を持たず、弱者を抹殺し、世間が騒ぐさまを見て喜ぶ。サイコパス、言いかえればモンスターともいうべき異常犯罪者が、事件の真相をどう表現するのか。しかし、その「核心」には、一切触れられていなかったのである。

 読み終えた私は溜息をつき、そして失望した。