山田敏弘(ジャーナリスト)


廃業の日


 2015年12月3日、福島県本宮市に暮らす三瓶利仙(60)と恵子(57)の酪農家夫婦は、牛舎で次々と売られていく牛を眺めていた。
原発事故5周年を前に廃業を決めた三瓶夫婦。2015年11月24日、本宮町の牛舎にて。撮影:郡山 総一郎
原発事故5周年を前に廃業を決めた三瓶夫婦。2015年11月24日、本宮町の牛舎にて。撮影:郡山 総一郎
 朝10時過ぎに始まった牛の販売会には同業者が50人ほど集まった。あらかじめ組合関係者や獣医など目利きによって付けられていた値段を参考に、参加者は夫婦によって売りに出された49頭の牛を挙手で購入していく。価値の高い牛には、40人が購入を希望した。その場合にはくじ引きで購入者が決められた。

 販売会は、数時間で終了した。妻の恵子は「牛が売られてトラックに積み込まれて行く様子を見ていると、5年前に牛と一緒に避難した日のことが蘇ってきて、正直言って辛かった」と語る。

 そしてこう続けた。「これまで5年、無我夢中で必死に生きてきました。だから実感がなかったのかもしれないが、今初めてとんでもないものを失ったんだと気がついた」

 この夫婦は40年間続けてきた酪農をこの日、廃業した。

福島第一原発から25キロにある酪農家


 2016年3月11日、東日本大震災の発生から丸5年を迎える。ちょうど5年前、東京電力福島第一原発は津波に襲われて電源を喪失したことで、未曾有の原発事故を引き起こした。放射能汚染で周辺住民は避難を余儀なくされ、現在でも多くの避難民が一時帰宅を除いて故郷に帰還することはできない状態にある。

 著者は事故発生の直後から、原発から25キロほど離れた福島県浪江町津島地区の酪農家夫婦の取材を続けてきた。夫婦は40年にわたり、二人三脚で、酪農一本で暮らしてきた。

 三瓶夫婦にとって、この5年は一体どんなものだったのか。「酪農は私たちのすべてです」といって憚らなかった夫婦が事故から5年を目前に廃業の決断をした背景には、福島原発事故の亡霊に翻弄され続けてきた苦悩があった。

 最初に三瓶夫妻を取材で訪ねた時、彼らは毎日、浪江町の自宅から30キロほど離れた仮の牛舎へ、牛の世話に通っていた。というのも、原発事故で自宅の牛舎に牛は置いておけなくなり、仮牛舎に移動させていたからだ。

 夫妻は事故のすぐ後、牛を残して一度は避難した。だが彼らにとって、牛は単なる収入源というだけではない。避難先でも愛おしいという想いが溢れ、見捨てることは到底できなかった。

 そして浪江町の自宅から車で1時間ほど行った、原発から遠く離れた本宮市に牛舎を見つけ、牛を全頭移動させた。妻の恵子は当時、何としても酪農を続けたいと語っており、彼らにとって仮牛舎に移動したことは大きな前進だった。寡黙にてきぱきと牛の世話を続ける夫の利仙はある日、浪江町の自宅に帰ると、「1時間かけて通うのは遠い」と本音を漏らしながらも、どこか嬉しそうに見えた。
本宮町にある仮の牛舎に入って間もない三瓶夫婦。2011年5月23日。撮影:郡山 総一郎
本宮町にある仮の牛舎に入って間もない三瓶夫婦。2011年5月23日。撮影:郡山 総一郎
 そんな生活でも、当時は、帰還して再び以前と同じ牛舎で酪農を続ける希望は捨てていなかった。いつでも牛が戻れるようにと、空になった自宅牛舎の清掃を怠らなかった。牧草を敷き、牛が戻った際に滑ることがないようにとカビを防止する粉を牛舎内に撒き続けていた姿が、著者の目には焼き付いている。妻の恵子は「当時は、先があるんだという漠然とした希望があった」と述懐する。

 だが結局、いつまでたっても東電の事故は収拾の目処が立たず、数カ月後には三瓶夫婦も仮の牛舎に近いアパートに引っ越した。拠点を移動し、夫婦は酪農を再開する準備を始めた。