武澤忠(日本テレビ・チーフディレクター)

  「1000年に一度の大災害」と言いながら、みんなもう忘れ去ってしまっているのでは・・・。時々、そう感じることがある。自分自身マスコミの人間でありながら、「月日と共に記憶が風化していく」現実は否めない。だからこそ「誰かが伝え続けていかなければならない」とも思う。

 東日本大震災当時、日本テレビの生情報番組の総合演出をしていた僕は、福島県相馬市の実家が被災。そしてその後、自らカメラを回し、「被災した実家の母」を撮り続けることとなる。

 その中で感じた被災地のリアルな苦悩、葛藤・・・そして見つけた小さな希望。当時78歳で、一度は絶望のどん底にいた母が立ち上がっていく姿を見て感じたのは「ニッポン人の逞しさ」だった。

 もうすぐ震災から5年。これは、テレビマンとして、被災者の息子として、これまで感じた事を綴った記録である。すべては「忘れずに伝え続ける」ために。

 震災後に、民放連の会合で各社の記者やデスク、ディレクターが集まり「震災報道」の課題や問題点を共有するために話し合ったことがある。

「『遺体』を撮るのか、撮らないのか!?」

 甚大な被害を受けた海岸地域には遺体が累々と並び、とても正視できる状態ではなかった。それでもカメラマンは映像を撮り続けた。いかにひどい出来事であっても、視聴者に伝えるためには、映像として記録しなければならない。

 しかし、ある社のカメラマンは、「どうせ放送出来ないのだから」と、はなから遺体を避けて、撮影したという。

 確かに今の日本のテレビが、遺体が累々と並ぶ光景を、そのまま放送するわけはない。しかしモザイク加工するにしても、もともと映っていなければ、放送しようがない。

 この「はなから遺体は撮らない」という姿勢は、果たして正しいのだろうか?

 どう放送するかはその時々の責任者にゆだねるにしても、映像財産として、「現実」を記録しておかなければ、次の世代にこの災害の真実を伝えられないのでは?

 そんなことが議論された。結論は出ない。

 今回の被害はそれだけ大きく、最前線で取材する記者やカメラマンも困惑していた。何をどうすれば良いのか、迷っていた。かくいう僕自身も。

<未曾有の大災害「東日本大震災」の幕開け>

 2011年3月11日2時46分。

 当時担当していたお昼の生放送番組「DON!」の一週間の生放送を終え、ほっと一息つき、翌週分の打ち合わせがてら弁当をかきこんでいるときだった。

 東京・汐留にある日本テレビのオフィスビルが突然大きく揺れる。その時僕がいたのは29階の会議スペース。ただならぬ揺れに思わず箸をおき、咄嗟にテーブルを握った。

 「やばい・・・これはでかいぞ」

 瞬間、背筋が凍りつくのを感じた。揺れは徐々に激しくなり、周囲からは女性スタッフの悲鳴が聞こえた。移動式ロッカーが右に左に激しくぶつかり、凄まじい音をたてていた。

 打ち合わせをしていた普段クールなディレクターは、机の下にもぐりこんだ。涙がでそうなほどの恐怖を感じながら、僕はひたすら「早くおさまってくれ!」と神頼みするしかなかった。
ようやく揺れがおさまり、思わずテレビの画面を見る。

 「東北震度6強」

 瞬間、福島県相馬市でひとり暮らす母・順子の顔が浮かぶ。すぐに携帯から電話をするがまったくつながらない。卓上電話を使ってもダメだった。
東日本大震災、捜索活動をする消防隊員ら =2011年3月14日午前9時12分、福島県相馬市、合同ヘリから
東日本大震災、捜索活動をする消防隊員ら =2011年3月14日午前9時12分、福島県相馬市、合同ヘリから
 「お台場が燃えているぞ!」

 誰かの声に窓際に面した喫煙所へ駆けつける。見れば、お台場のフジテレビの裏手から、黒い煙が立ち上っていた。正直、「この世の終わり」かと思った。

 母は相変わらず連絡が取れない。そのとき耳に飛び込んできたアナウンサーの音声に、僕は思わず目の前が真っ暗になった。

 「福島県相馬市岩の子には7.3メートルの津波が押し寄せ、壊滅状態です!」

 そこはまさに実家だった。78歳の母が、ひとり暮らしていた。

 「なに!? 壊滅って、なんだよ・・・」

 言葉を失っている僕の目に、各地の凄まじい津波の映像が飛び込んできた。
これが未曾有の大災害「東日本大震災」の幕開けだった。