小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 兵庫県たつの市の龍野神社に所蔵されていた「脇坂家文書」は、一時流出していたが、このたび市が購入し、東京大学史料編纂所の村井祐樹助教をはじめとする関係者による修復・調査によってみごとによみがえった。

 秀吉から脇坂安治に宛てた36通の朱印状(奉行人奉書1通を含む)で、秀吉関係の文書がこれだけまとまって発見されるのは稀有なことといってよい。しかも、そのほとんどが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いから同15年(1587)の九州攻めまでの文書で、天下人になる前の秀吉の文書がこれだけまとまっている点、信長死後、秀吉が天下統一を果たしていく過程を追いかける上で貴重な文書群である。
修復された秀吉の書状。「秀吉」の字(中央下)も確認できる=1月21日、兵庫県たつの市(沢野貴信撮影)
修復された秀吉の書状。「秀吉」の字(中央下)も確認できる=1月21日、兵庫県たつの市(沢野貴信撮影)
 宛所の脇坂安治であるが、脇坂家はもともと北近江の戦国大名浅井氏の家臣であった。浅井氏滅亡後、安治はその遺領に入った羽柴秀吉に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで大活躍をし、福島正則・加藤清正らとともに「賤ヶ岳七本槍」の1人にカウントされている。

 もっとも、その後は正則・清正らとくらべると出世は遅れ、同13年に、従五位下・中務大輔に叙任し、淡路の洲本で3万石を与えられ、秀吉の天下統一の戦いに寄与している。安治自身は最終的には伊予大洲5万3500石で終わるが、安治の子安元を経て、その養子安政が播磨龍野に移っている。「脇坂家文書」がたつの市に伝わったのはそのためである。

 さて、その36通の朱印状であるが、実に興味深い。秀吉が浅井長政の居城だった小谷城、そのあと築いた長浜城主時代からの家臣という気安さもあったのであろう。2人の親密な関係がうかがわれ、秀吉がたびたび安治を叱責しているが、安治の怠慢もあったにしても、これは、親密な関係があったからだと思われる。何となく、気心の知れた安治に鬱憤(うっぷん)晴らしをしているような印象すらある。

 今回の発見で私自身、一番注目したいのは、小牧・長久手の戦いに関して、伊賀の状況がわかるようになってきた点である。小牧・長久手の戦いという戦いの名称から、何となく、戦いは現在の愛知県小牧市および長久手市だけで繰り広げられたように思われているが、実際は伊勢でも激しい戦いがあった。それについてはこれまでにも研究されているが、伊賀に関する情報はほとんどなかったのである。