井沢元彦(作家)

 国民作家、司馬遼太郎は豊臣秀吉のことを「史上、類を絶した大悪党」と呼んでいる。徳川家康を主人公とした小説「覇王の家」においてである。同じ作者の「新史太閤記」や「関ヶ原」を読んだ読者にとっては意外かもしれない。私に言わせれば、関西人である司馬遼太郎はどちらかといえば豊臣びいきであり、関西人特有の「家康嫌い」についてもかなり賛成のように見受けられるからだ。 

 確かに家康は秀吉と固い約束を交わしたにもかかわらず、その死後あっという間に天下を乗っ取った。しかも秀吉の子孫を根絶やしにした。ここだけ見れば家康の方が大悪党である。しかしながら秀吉という男も実は褒められたものではない。織田信長の天下を、信長が死んだ途端乗っ取ったからだ。しかもその過程で信長の息子の3男信孝を切腹に追い込み、その母と娘つまり本能寺の変以前は秀吉にとって「お方様」であり「姫」だった女性を自らの手で処刑している。まさに大悪党なのである。
大阪城二の丸の豊國神社に建つ豊臣秀吉公銅像=平成22年12月18日、大阪市中央区(竹川禎一郎撮影)
 家康にしてみれば「秀吉よ、お前が織田家に対してやったことを、オレはやったに過ぎない」と弁明したいところだろう。しかし、秀吉には家康にない優れた能力がある。これも司馬遼太郎が小説「覇王の家」で述べている言葉を使えば「大魔術」の使い手であった。

 これを読んでいるあなたは中年以上か、それとも若者だろうか? 中年以上の人ならば秀吉は「大悪党」などとは夢にも思っていない。むしろ子孫が滅ぼされた気の毒な人というイメージすら持っていないだろうか?その点はその通りなのだが、一方で秀吉の織田一族に対する仕打ちというのは、まさに大悪党の仕業と言っていいのが歴史上の事実である。秀吉にとって信長は卑賤の身からとりたててくれた大恩人である。「足を向けて寝られない」ほどの存在だ。にもかかわらず本能寺の変が終わって、わずか数年の間に3男信孝は切腹に追い込み2男信雄はいったん追放した。主君の直系の孫である秀信(三法師、長男信忠の子)には美濃一国は与えたが、天下は返さなかった。まさに忘恩の徒である。

 しかし後世の人間は秀吉を悪く言わなかった。同じことをした家康は散々悪口を叩かれたのに、極めて不思議な話では無いか。ここが「大魔術」なのである。最近は新しい傾向として、秀吉のこうした点に注目して、秀吉を腹黒い悪人に書いた小説もある。私が書いた「逆説の日本史」(小学館刊)では秀吉の悪をきちんと追及しているので、こういうことが影響を与えたのかもしれない。つまり若者の中にはあまり秀吉の「大魔術」に騙されていない人もいるということだ。