SAPIOが識者50人に実施した最強のタフネゴシエーターは誰か、というアンケートで3位に選ばれた豊臣秀吉。秀吉には壮大な野望があったと評論家、西尾幹二氏は指摘する。

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 秀吉が中国すなわち大唐国を制圧する企てを公言したのは関白になった直後の天正13年(1585年)で、攻略の目標は朝鮮を越えて明に据えられていた。

 しかし文禄元年(1592年)、日本軍が釜山に上陸し、二十日あまりで漢城(現在のソウル)を占領したときに関白となっていた秀次にあてた書状によると、彼の壮大な世界征服計画はさらに一段と拡大していた。

 北京に後陽成天皇を移す。都の周辺の国々10か国を進上する。秀吉自らはまず北京に入り、その後寧波に居を定める。諸侯に天竺(インド)を自由に征服させる。

 この構想は中華帝国に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に一大帝国を築きあげようとするものであって、秀吉が北京にいる天皇をも自らは超えて、皇帝の位置につき、地球の半分を総攬すべき統括者になろうというようなこのうえもなく大きな企てであった。

 これはすなわち、中華中心の華夷秩序をも弊履(へいり、破れたくつの意)のごとく捨て去ってしまう日本史上おそらく最初の、そして最後の未曾有の王権の主張者として立ち現われた点が注目されなくてはならない。

 これを誇大妄想として笑うのは簡単である。結果の失敗から、計画の評価を決めれば、すべては余りに無惨であった。

 しかし彼は病死したのであって、敗北したのでは必ずしもない。秀吉はモンゴルのチンギス・ハーンやフビライ・ハーン、スペイン王国のフェリペ2世と同じ意識において世界地図を眺めていた、日本で唯一人の、近代の入り口における「世界史」の創造者として立ち振る舞おうとしていたということが重要なのである。

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