230人と同時に対局、世界一の多面打ち名人 囲碁棋士・白江治彦

THE PAGE

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THE PAGEより転載)
 「多面打ち」という言葉をご存知だろうか。囲碁で1人の指導者が、複数の人と同時に対局する打ち方のことだ。通常は、指導者1人が3人または4人の方の相手をすることが多いが、今回紹介する棋士は、1人で230人と同時に対局した、多面打ちの名人である。

 囲碁棋士・白江治彦。78歳。大きな声でたくさん話し、とにかくよく笑う。囲碁棋士というより、大物司会者のような雰囲気だ。だがそんな白江も少年時代は無口でシャイな子供だった。


実力をカン違いして上京


 「囲碁を始めたのは、小6くらいの頃だったかな。プロにしては始めるのが遅かったんだよね。もっと早くからやっていたら、私がタイトルを独占できていたのに」

 そう言って大きな声で笑う。

 白江が育ったのは石川県小松市。男ばかりの4人兄弟の2番目として生まれた。

 「父は兄弟全員に囲碁を教えてね。長男が一番強かったんだけど、夏休みにみんな水泳に夢中になっちゃって、いつの間にか自分だけに。内気な子どもだったから、かえって夢中になったのかもね」 

 その後、白江少年は良き指導者にも出逢い、囲碁の魅力にハマっていく。

 「当時は囲碁を打つ子供がいなかったから、みんな相手は大人でね。子供って大人に勝てるとめちゃくちゃ嬉しいんだよね。大人が悩んでくれるのも嬉しい。だからどんどん勉強したんだ。それと通っていた碁会所が良かったかな。いつも僕より少しだけ強い人を探して打たせてくれて、まずその人に勝つことを目標にする。そしてその人に勝ったら、また少しだけ強い人と打つ。そうやって小さなハードルを設定してくれることで、自分でも強くなったことがわかるし、達成感も感じられた。今思うとすごく手のかかることをしてくれたよね」

 地元で天才少年と評判になった白江。当時は政財界の大物に囲碁ファンが多い時代で、新聞社や市長、大学の学長、知事に至るまで、白江をバックアップし、東京でプロを目指すことになった。

 「今から思うと、年齢的にも無理だし、実力もそれほど強くなかった。周りに乗せられて錯覚していたんだよね」
「あなたは絶対プロになれませんよ」


「あなたは絶対プロになれませんよ」


 昭和30年、高校を中退し、17歳で上京。院生(※1)になるための試験を受けた。現在は14歳までに試験を受けなければ入れない院生制度。当時のルールは少し緩かったとはいえ、18歳で卒業しなければいけない院生に17歳で入るのは、誰に聞いても遅いというだろう。

 「院生師範の杉内雅男先生が、『君にはチャンスが1回しかないし、実力も話にならないから、国に帰りなさい』と言うの。でも私も東京に出てくるときに餞別をもらったり、みんなに応援してもらっているから、そう簡単に帰れない。なんとかお願いして試験碁(※2)を打たせてもらってね」

 対戦相手は当時院生で、子供ながら大人の大会でも優勝する実力があった小西泰三八段。一方の白江は、石川県で5番目くらいの実力だった。

 「みんな私が勝つなんて思っていなくてね。ところがラッキーパンチが入ったんです(笑)。一応形としては勝ったから、なんとか院生になれました。杉内先生も、どうせ私は1年しかいられないから、すぐに出ていくだろうと思って許してくれてね。先生には『あなたは絶対プロになれませんよ』とも言われて、悔しいけどそれが逆に良かったみたい」

 少しでも可能性があると言われたら、それに甘えてしまったかもしれない。だが全く可能性がないと言われたことで、白江少年にはある種の決意が生まれた。1年という短い時間。どうせプロになれないのなら、この時間を懸命に生きるしかない、と。

 「1日10時間位かな。下宿先でひたすら碁の勉強をしました。気が付くと碁盤の上で寝ちゃうこともあったな。神保町に行って、少ないお小遣いの中から、囲碁の全集を買って並べてね。寝ている時間以外は全て囲碁漬けでした」

神様がご褒美をくれた


 白江少年が修業時代にもう1つ行っていたこと。それは誰よりも早く来て、碁盤と碁石、を準備することだった。

 「院生の幹事が5、6人はいたけど、みんな院生研修が始まるギリギリにしか来ない。私は早起きだったので、7時半に行って、まず足つきの碁盤を50面並べる。押入れから出しては並べ、出しては並べ、ってね。それが終わったら碁石、そして時計、時計を置く台と、一生懸命やって、みんなが来る9時くらいになる、という感じだったかな」

 この作業をほぼ1年間、プロ試験を受ける頃までやり続けた。決して囲碁の実力に繋がるわけではない地味な作業をコツコツと。白江の決意のようなものが伝わるエピソードだ。そして神様はそんな白江にご褒美をくれた。最初にして最後の入段試験で合格したのだ。

 「絶対プロになれないと言われたのに、予選から合わせて55勝4敗という好成績を上げてしまってね。自分でも信じられなかったなあ。実力だけではないものを感じたよね」
「対局」と「普及」は棋士の両輪


「対局」と「普及」は棋士の両輪


 奇跡の入段。そして白江は棋士としての自分の生き方も考えるようになる。

 「棋士には2つの使命があって、1つは碁の勉強をしてタイトルを目指すこと。もう1つは囲碁の普及をすること。この2つは両輪でね。どちらが欠けてもダメなんです。碁というものがなくなってしまったら、棋士という職業は成立しないけど、棋士がいなくても、碁は成立するんです。囲碁の良さをたくさんの人に知ってもらって、そのおかげで棋士が棋士としていられるのに、時々みんな忘れてしまうんだよね。自分の勉強だけしていれば良いと思っている。普及という仕事をしていると、棋士の本分を全うしていないようなことを言われることがあるけど、それは全然違うんです」

 白江がこう熱く語るのには理由がある。若い頃から、先輩棋士の教室を手伝い、その講義の面白さが買われてテレビ講座にも多数出演し、大人気となった。その一方で、対局を疎かにしているのではないかという心無い言葉もかけられることがあったのだ。

 「昔は囲碁を打つ方が多くてね、夜の教室なんて、定員100人くらいがあっという間に埋まった。そんな良い時代を知っているからこそ、普及が大事だと強く思うんだ。棋士は生活のために指導碁をするのではなく、普及活動自体が棋士の本分だし、求められる場があるのなら、喜んで伺うべきなんです」

多面打ちの名人


 1人でもファンの方に喜んでもらいたい。そんな白江の発想から生まれたのが多面打ちだ。同時に沢山のお客さまを満足させるにはどうしたら良いか。当時最強の棋士だった呉清源九段がヒントをくれた。

 「呉先生がアマ高段者の方を、3人くらい同時に打っていてね。先生は両利きだったので、左右で打っていた。それが蝶のようでカッコ良くてね。これだ!と思って、どんどん多面打ちの面数も増やしてやり始めました。呉先生からは『多面打ちの名人だね』と言われて嬉しかったのを覚えています」

 1人が大勢を相手にする多面打ちは見ているだけでも圧巻だ。囲碁普及という意味からも、人を寄せ付けるイベントとなり、10面、20面とどんどん増えて行く。そして平成3年には、フランス・パリで102面打ち、平成10年には日本棋院で230面打ちを行うなど、「多面打ちの白江」が印象付けられることになった。

 実は多面打ちというのは、立ち仕事での移動、そして腰を曲げての着手など、体力的にキツい仕事でもある。だが白江は、78歳になった今も、10面打ちなどの多面打ちを続けている。
碁はすばらしいもの


 「たくさんの人に喜んでもらうのは、棋士として何よりのやりがいなんです。同じ時間を過ごすなら少しでも楽しんでほしいし、体力的には全然大丈夫」と笑顔で語る。

 ファンへのサービス精神から生まれた多面打ちは、今では様々なイベントで取り入れられている。
「碁はすばらしいもの。末永~く楽しんでほしいです。僕は教えている方にも、こういうことをやりなさい、とは一切言わない。面白いことをたくさんやって、お迎えがくるまで、ずっと一緒に囲碁を楽しみましょうね」と。

※1 プロになるための養成機関のこと
※2 院生になるための試験対局のこと

王 真有子(おう まゆこ) ライター・囲碁インストラクター。囲碁雑誌・囲碁書籍の執筆多数。『囲碁手筋・基本のキ』(マイナビ出版)『囲碁スピード入門』(ユーキャン)などの構成を担当。インストラクターとしても、初心者や級位者から絶大な支持を集めている。吉原由香里・王唯任・万波佳奈の囲碁教室講師。

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