窮地に追い込まれると強くなる 井山囲碁の「神髄」とは何か

『朴 道純』

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朴道純(元全日本学生囲碁名人)


 「井山裕太の強さの源泉は何か?」というテーマで執筆依頼を受けたとき、真っ先に思い浮かんだのが「発想の豊かさ、斬新さ」だった。他の棋士なら何も気づかずに通り過ぎるような局面で手を止め、検討陣が考えもしなかった着手を放つ場面が1局に1回以上はある。打たれた当初は意図がわからなくても手順が進んでいくと隠れていた意味に気づかされることが多い。

 今年の1月21日に行われた第54期十段戦挑戦者決定戦のVS余正麒七段戦での一着、
 
 白1のケイマに黒2とツケたのは驚愕の一手(1図)。もし負ければ七冠達成が一気に遠ざかるという大舞台でも「自分が打ちたい手を打つ」という気迫が伝わってくる。師匠の石井邦生九段が井山に与えた「自由に、元気よく打ちなさい」というアドバイスがそのまま具現化したような手である。

 他人が引いたレールをなぞるのではなく、自分自身の力で道を切り開いていくという思想は盤外にも表れている。当時、小学四年生だった井山少年は自分で研究会を作ったのである。理想通りの環境を作るためには既製の研究会に属するのではなく、自分で立ち上げるべきだという事実に10歳の頃から気づいていたのだ。井山研究会にはたくさんの棋士たちが集まり、大成功。井山が少年の頃から実力と人格の両方を兼ね備えていたことがわかる。

 「自分が打ちたい手を打つ」とか「自分自身の力で道を切り開く」と口で言うのは簡単だが、実行するのは難しい。囲碁の対局には勝ちまたは負けと結果がはっきり出るからだ。勝つために日夜努力している棋士にとって対局の棋譜は自分の分身である。その棋譜に敗北というレッテルを張られることは自分自身を全否定されたことに等しい。負けを恐れるあまり、常識に従ったり、他人を模倣するなど、無難な道を選択してしまうことが多い。

敗北への恐怖を克服

 井山にとって最初の壁はプロ入りを目指す院生の頃に訪れた。自分が打ちたい手を打った結果が勝利に結びつかず、入段予備軍だったAクラスから一つ下のBクラスへ落ちてしまったのである。

 井山の母・宏美さんは当時を次のように振り返る。

「そのころスランプだったようです。まっくらな自分の部屋で碁盤をポツンと見つめている。このときを思い出すといまでも涙が出ます。小さいのに大きなものを背負っているのだなと。言ってやりました。あなたは宝物。碁が強いから大切なのではない。たとえ強くなくても私たちの子供なんだから……。そしたら裕太ったら大声で泣き出しました」(※1)

余正麒七段(手前)を破って十段戦の挑戦権を獲得した井山裕太六冠=1月21日夜、大阪市北区の日本棋院関西総本部(彦野公太朗撮影)
 このとき井山七冠はたとえ負けたとしても絶対に味方になってくれる両親と言う存在を強く意識したのだろう。負けるのは心の底から悔しいが、すべてを否定されるわけではないという事実に気づく。敗北への恐怖を克服した結果、スランプを脱して12歳という若さでプロ入りを果たす。

 入段後、井山は周囲の期待通りに成長した。平成17年には阿含桐山杯で優勝し、16歳4か月という史上最年少記録でタイトルを獲得した。翌平成18年には棋聖、名人リーグ入りの最年少記録も塗り替えるなど、目覚ましいスピードで成長していく。初めての名人リーグで挑戦権を獲得した井山は張栩三冠(当時)と激突する。

 第1人者である張と期待の新鋭の井山による第33期名人戦七番勝負は一進一退の末、3勝3敗で最終局へもつれこんだ。勝てば名人という大一番は張が貫録を示し防衛。敗れて自室に戻った井山の頬に大粒の涙が流れた。悔しさと自分のだらしなさを責める気持ちを抑えられず、30分ほど泣き続けたそうだ。「敗因はすべての面で張栩さんに及ばなかったからだ」と自分に言い聞かせて気持ちを切り替えた井山は師匠の石井九段に電話で結果を報告する。

 石井九段は「よく頑張ったよ。全体を通して堂々としていた」と弟子の健闘をねぎらった後に「次が勝負だよ」と付け加えた。インターネットで1000局近く指導し、常に弟子の成長を願っていた師匠の言葉は井山の胸に深く突き刺さった。「この敗戦を糧にして来期も挑戦する」と気持ちを前向きに切り替え、翌年の名人リーグを全勝で勝ち抜いて再挑戦する。第34期名人戦七番勝負では4勝1敗と張を圧倒し、ビッグタイトルを獲得した。(※2)

 「自分が打ちたい手を打つ」とか「自分自身の力で道を切り開く」という理想は家族や師匠による手厚いサポートがあって初めて実現するのだ。目標が高ければ高いほどうまくいかない場面が頻繁にやって来る。井山は周囲の手助けによって困難を切り抜け、第1人者への道を駆け上がっていく。

 「井山裕太七冠の強さの源泉は何か?」というテーマを与えられ、次に思い浮かんだのは「劣勢な局面での逆転術」だった。斬新な発想は常に成功するわけではない。常識から外れているがゆえにうまくいかない場合もある。非勢な状況でも安易に土俵を割らず、勝利へのチャンスをつかむのが実にうまい。不利な状況では辛抱して反撃の機会を待つ戦略と勝負手を放って局面を打開するという二つの戦略がある。この硬軟両様の対応策を使い分けるのが秀逸なのだ。

 第54期十段戦挑戦者決定戦では1図の後、余が華麗なサバキで対応したため、井山は劣勢に。お膝元の関西総本部の控室でも「逆転は難しい」という声一色になるほど、井山は窮地に追い込まれる。
井山だけが身に着けた優れた技術


 劣勢を打開したのは2図、黒1、3という勝負手だった。中央で戦っているうちに黒1の一子が絶妙に働き、井山は流れを引き寄せる。差が縮まったあとはじっくりと打ち進めて余の失着を誘い、逆転に成功。持ち前の巧みな逆転術で七冠全冠制覇への最後の砦である十段位への挑戦権を獲得した。

 常識にとらわれない自由な発想で打ち進め、優勢になればそのまま逃げ切る。もし不利になった場合は卓越した逆転術で勝機をつかむ。ものすごく単純に説明すればこのような筋書きで井山は勝ち星を積み重ねてきた。最後になぜ井山だけがこのように優れた技術を身に着けることができたかを考えてみたい。

 このことを読み解くためのキーワードは「世界一」だと思う。

 小学3年生の時、2度目の小学生名人になった井山はインタビューで将来の夢を問われ、「世界一の棋士になりたい」と答えた。慢心することを恐れた石井九段は中国棋院で行われる全国児童囲碁大会に井山を特別参加させる。日本では敵なしの強さを誇っていたはずなのに、中国では5勝4敗という凡庸な成績しか上げられなかったショックは想像以上に大きかった。これ以降、井山は「世界一」を目標に上げることはなくなった。

 もちろん「世界一」になることを断念したわけではない。「世界一の棋士になりたい」という理想と「中国では同年代相手に勝ち越すのがやっとだった」という現実のギャップに打ちのめされたのだろう。「世界一の棋士になりたい」と自分自身が胸を張って語るため、井山はさらに囲碁へ打ち込んでいく。「世界一」という高い理想に自分を近づけていこうという熱望が原動力となり、七冠制覇を目前とするほどの強さを身に着けたのだ。

 平成23年に博賽杯金佛国際囲碁超覇戦、平成25年にはテレビ囲碁アジア選手権で優勝したものの、井山はまだメジャーな世界タイトルを獲得していない。七冠制覇を達成して日本囲碁界の宝となった井山が世界一となり、さらに光り輝くことを心から望む。

参考文献
(※1) わが天才棋士・井山裕太(著者・石井邦生、出版社・集英社インターナショナル)
(※2) 井山裕太20歳の自戦記~史上最年少名人までの17局(著者・井山裕太、出版社・日本棋院)

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