井山にとって最初の壁はプロ入りを目指す院生の頃に訪れた。自分が打ちたい手を打った結果が勝利に結びつかず、入段予備軍だったAクラスから一つ下のBクラスへ落ちてしまったのである。

 井山の母・宏美さんは当時を次のように振り返る。

「そのころスランプだったようです。まっくらな自分の部屋で碁盤をポツンと見つめている。このときを思い出すといまでも涙が出ます。小さいのに大きなものを背負っているのだなと。言ってやりました。あなたは宝物。碁が強いから大切なのではない。たとえ強くなくても私たちの子供なんだから……。そしたら裕太ったら大声で泣き出しました」(※1)

余正麒七段(手前)を破って十段戦の挑戦権を獲得した井山裕太六冠=1月21日夜、大阪市北区の日本棋院関西総本部(彦野公太朗撮影)
余正麒七段(手前)を破って十段戦の挑戦権を獲得した井山裕太六冠=1月21日夜、大阪市北区の日本棋院関西総本部(彦野公太朗撮影)
 このとき井山七冠はたとえ負けたとしても絶対に味方になってくれる両親と言う存在を強く意識したのだろう。負けるのは心の底から悔しいが、すべてを否定されるわけではないという事実に気づく。敗北への恐怖を克服した結果、スランプを脱して12歳という若さでプロ入りを果たす。

 入段後、井山は周囲の期待通りに成長した。平成17年には阿含桐山杯で優勝し、16歳4か月という史上最年少記録でタイトルを獲得した。翌平成18年には棋聖、名人リーグ入りの最年少記録も塗り替えるなど、目覚ましいスピードで成長していく。初めての名人リーグで挑戦権を獲得した井山は張栩三冠(当時)と激突する。

 第1人者である張と期待の新鋭の井山による第33期名人戦七番勝負は一進一退の末、3勝3敗で最終局へもつれこんだ。勝てば名人という大一番は張が貫録を示し防衛。敗れて自室に戻った井山の頬に大粒の涙が流れた。悔しさと自分のだらしなさを責める気持ちを抑えられず、30分ほど泣き続けたそうだ。「敗因はすべての面で張栩さんに及ばなかったからだ」と自分に言い聞かせて気持ちを切り替えた井山は師匠の石井九段に電話で結果を報告する。

 石井九段は「よく頑張ったよ。全体を通して堂々としていた」と弟子の健闘をねぎらった後に「次が勝負だよ」と付け加えた。インターネットで1000局近く指導し、常に弟子の成長を願っていた師匠の言葉は井山の胸に深く突き刺さった。「この敗戦を糧にして来期も挑戦する」と気持ちを前向きに切り替え、翌年の名人リーグを全勝で勝ち抜いて再挑戦する。第34期名人戦七番勝負では4勝1敗と張を圧倒し、ビッグタイトルを獲得した。(※2)

 「自分が打ちたい手を打つ」とか「自分自身の力で道を切り開く」という理想は家族や師匠による手厚いサポートがあって初めて実現するのだ。目標が高ければ高いほどうまくいかない場面が頻繁にやって来る。井山は周囲の手助けによって困難を切り抜け、第1人者への道を駆け上がっていく。

 「井山裕太七冠の強さの源泉は何か?」というテーマを与えられ、次に思い浮かんだのは「劣勢な局面での逆転術」だった。斬新な発想は常に成功するわけではない。常識から外れているがゆえにうまくいかない場合もある。非勢な状況でも安易に土俵を割らず、勝利へのチャンスをつかむのが実にうまい。不利な状況では辛抱して反撃の機会を待つ戦略と勝負手を放って局面を打開するという二つの戦略がある。この硬軟両様の対応策を使い分けるのが秀逸なのだ。

 第54期十段戦挑戦者決定戦では1図の後、余が華麗なサバキで対応したため、井山は劣勢に。お膝元の関西総本部の控室でも「逆転は難しい」という声一色になるほど、井山は窮地に追い込まれる。