世界一こそ次世代を導く 井山裕太「23歳の戴冠」

『産経新聞』 2013年03月 15~17日

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【23歳の戴冠 井山裕太研究】(産経新聞2013年03月15~17日掲載)


「大阪の生活」強さ支える 


 碁盤をはさみ、がっくりとうなだれたのはタイトルホルダーである張栩(33)の方だった。日午後5時過ぎ、棋聖戦第6局が行われた静岡県伊豆市の旅館・玉樟園新井。張が投了を告げると、一斉に報道陣が対局室へ流れ込んだ。

 「強かった…。シリーズを通して反省点が多かった」。完敗を認め、先に対局室を出る張の後ろ姿に、勝者の井山裕太(23)は黙って頭を下げた。

 グレーのスーツに紺色のネクタイ姿。正座のまま背筋を伸ばし、インタビューに応じる井山は、6冠達成に安(あん)堵(ど)したのか時折、笑みを浮かべた。だが、質問は早くも「次の目標」に移る。井山は落ち着いた口調で、はっきりと答えた。「7冠と国際棋戦での優勝を期待されていることは痛いほど感じています。大変なことだけど、そんなに大変じゃないと思っている部分も自分の中にはある」

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 「彼は、将棋はからっきし。金と銀の駒の動かし方の違いも、よく分かってないんですよ」

成人式であいさつする囲碁最年少名人の井山裕太さん
=2010年1月11日、大阪府東大阪市
 将棋の女流初段、室田伊緒(23)はこう話すと、童顔をほころばせた。2人は同じ平成元年5月24日生まれ。関西の囲碁・将棋界の交流の中で知り合い、昨年の誕生日に結婚した。今は大阪市内のマンションに2人で暮らす。

 棋士といえば、プライベートも囲碁漬けの印象が強い。だが、井山はそうではないという。「もちろん、パソコンや碁盤の前で研究はしていますよ。でも、いつの間にかテレビのお笑い番組を見て、笑い転げているんです」。ともに勝負の世界に生きる2人は負けず嫌い。将棋だけでなく神経衰弱などのトランプゲームもやるが、強いのはいつも室田で、井山は自分が勝つまで続けたがるという。

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 室田だけでなく、親しい知人が語る井山像は、みな「普通の人」だ。井山が主宰する研究会の後輩、初段の吉川(きっかわ)一(はじめ)(22)は「よく話すのは、『ダウンタウンの松本(人志)はおもろい』とか、メジャーリーグとかですね」。

 研究会が開かれる火曜日、吉川は野球好きの井山のキャッチボールの相手を務めることが多い。「野球をやっていると、リラックスするみたいです」

 だが、このようなありふれた日常こそが、井山の原動力になっているのだという。

 対局で全国を転戦する中、井山は半日でも時間ができると自宅に戻る。室田は「緊張の連続だから、オフの時間が大事なんでしょうね」とおもんぱかる。井山の母、宏美(50)によると、結婚前も、大阪府東大阪市の実家でのんびりするのが何より好きだったという。

 対局だけを考えれば東京に移った方が有利にもかかわらず、井山が生まれ育った大阪を拠点にし続けている理由もここにある。井山はこう語る。

 「ホームタウンということは強く意識しますね。力をもらっている、という気がするんですよ。妻に家族、お世話になった方々。そしてファンの皆さんに」

型破り 千に及ぶ師弟対局

 椅子に座ると碁盤に手が届かないため、立ったまま碁石を次々と打ち込む。そんな6歳の園児が読売テレビの囲碁番組「ミニ碁一番勝負」に登場したのは、平成8年冬のことだった。

 園児は、とてつもない才能を秘めていた。大人たちを次々と打ち負かし、5人抜きでチャンピオンになってしまう。後に囲碁初の6冠を成し遂げる井山裕太は、このときから関西の囲碁ファンの間で知られる存在になった。

 井山は元号が平成に改まって4カ月余り後、共働き夫婦の一人っ子として、大阪府東大阪市で生まれた。幼い頃から身近にあったのは、ゲームとインターネット。井山という〝天才少年〟を育んだのも、この2つだった。

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 「好きなことには、とことん熱中する子でした」。井山の父、裕(ゆたか)(50)と母、宏美は口をそろえる。

史上初の6冠保持者となった井山裕太さん
 3歳のときはテレビの相撲中継に熱中し、幕下から横綱まで全力士の顔はもちろん、漢字を読めないのに字の形でしこ名も覚えた。この頃、裕が考案したのが、車で出かける際に前の車のナンバープレートの数字を足したらいくつになるか、という「足し算ゲーム」。夢中になった井山はすぐ3桁、4桁の計算ができるようになった。「ただ、足し算だけで、引き算はできませんでしたが…」

 そんな井山が5歳になると興味を持ったのが囲碁だった。きっかけは裕が買ってきたテレビゲーム。2、3週間でルールを覚え、3カ月後には父を負かすように。アマチュア六段の祖父、鐵文(故人)が指導に乗り出すと、めきめき腕を上げた。

 そこで腕試しに応募した「ミニ碁―」は、井山に運命的な出会いをもたらす。後に師匠となる日本棋院関西総本部所属の九段、石井邦生(71)が番組の解説者を務めていたのだ。

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 「アマ三段の腕前と聞いてばかなと思ったが、すぐに不明を恥じました。手が早く、しかも、ここで考えなければいけないというところでは、ぴたっと手が止まるんです」

 才能にほれ込んだ石井は、井山が小学生になると弟子にする。石井はこの弟子に、囲碁界では型破りといえる指導を行った。

 通常、師匠が弟子と対局するのは1回、場合によっては2回だけ。入門時と、見込みがないと判断して引導を渡すときだという。だが石井は「打って打って打ちまくって育てよう」と考えた。そこで目をつけたのが、普及し始めていたネット対局。まだ幼く、住み込みの内弟子も通いの弟子も難しい井山にはうってつけだった。

 「ネットだと師匠が怖い顔をしても見えないから、伸び伸び打てる。そういう元気な碁が彼の最大の持ち味でしたから」。月に何回かの直接盤を挟んでの指導を含め、井山との対局は千にも及んだ。やがて井山はハンディなしで師匠を負かすようになり、石井はその後、自分の孫に接するように精神面でのアドバイスに重きを置くようになった。

 井山が6冠をかけて棋聖戦第6局に臨んでいた14日午後、石井も対局中だった。対局を終えて快挙を知った石井は「身内のようにうれしい。感無量です」と話した。その表情は、まるで孫を思いやる祖父のようだった。 
「世界一」こそ次世代導く


「世界一」こそ次世代導く

 20代の名人などあり得ない―。昭和最強棋士の一人とされる故・坂田栄男(えいお)二十三世本因坊は昭和40年、全盛を誇った45歳のときに、こう語ったことがある。

 だが、井山裕太は弱冠20歳4カ月で名人を獲得し、3年半後には6冠に上り詰めた。井山が台頭する以前、覇を競い合った張栩(ちょうう)(33)、山下敬吾(34)ら「平成の四天王」も、20代でタイトルを獲得した。

 このような若手の活躍の要因の一つとして、近年の持ち時間の短縮が指摘されている。長考より脳の〝瞬発力〟が要求されるようになり、若手に有利に働いたという説だ。井山の強さもまさに、この速さにある。

 「井山さんは天才。予想もしなかった手ばかりがくる」。井山が目標とし、最大のライバルでもある張はこう述懐する。打つべき手を複数の選択肢から検討し、千手まで読むという井山。だが、意外にも対局相手を悶絶(もんぜつ)させる妙手は、「〝第一感〟という最初の直感によるものが多い」(井山)のだという。

 井山は右利きだが、囲碁だけは左手で打つ。祖父の鐵文(故人)が「右脳を刺激するように」と指導したからだ。定石を超えた井山の棋風は、祖父の薫陶のたまものともいえる。

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 順風満帆に見える井山の囲碁人生だが、挫折がなかったわけではない。

 その一つが、9歳のときに特別参加した中国の児童囲碁大会。6歳で大人を打ち負かした囲碁番組「ミニ碁一番勝負」や、小学2年で上級生相手に優勝した全国少年少女囲碁大会のように、年上相手に勝利を重ねてきた井山は初めて年下に負けた。29位に終わり、幼心に中国の囲碁界の層の厚さを実感したという。

壇上で笑顔を見せる井山裕太棋士=2013年5月13日、大阪市北区(大塚聡彦撮影)
 ここ十数年、日本の棋士は中国、韓国を相手になかなか勝てない状況が続く。6冠を果たした井山が会見で今後の目標を問われ、誰もが期待する「7冠」だけでなく「国際棋戦での優勝」も挙げたのは、9歳のときのリベンジの思いもあるのだろう。

 サッカーの香川真司、体操の内村航平、テニスの錦織(にしこり)圭…。若くして世界のひのき舞台で活躍するこれらのスポーツ選手は、井山と同じ1989年生まれだ。

 スポーツジャーナリストの二宮清純は「子供の頃から衛星放送で海外サッカーやメジャーリーグに親しんできた世代。彼らにとって世界という壁は低かったはずだ」と指摘する。95年に野茂英雄(44)がメジャーに渡り、98年には日本がサッカーのワールドカップに初出場した。

「日本選手の世界での活躍は、競技やジャンルが違っても影響したと思う。若くしてなかなか評価されることの少ない芸術の分野でも、将来、彼らの世代から国際的な人材が現れるかもしれない」

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 子供の頃から野球好きの井山も、メジャーリーガーのイチロー(39)のファンで、その姿勢に大きな影響を受けてきた。井山の国際棋戦への意気込みは、同世代のスポーツ選手と共通するものがある。

 もし、日本の囲碁界の頂点に立った井山が国際棋戦でも活躍したら―。

 井山の下の世代には、人気漫画「ヒカルの碁」がきっかけで囲碁を始めた〝棋士予備軍〟が大勢控えている。底辺が広がれば、頂点も高くなる可能性が高い。海外でも活躍する井山に刺激を受けた後輩たちが、井山がうかうかしていられないほど日本の囲碁のレベルを向上させるかもしれない。野茂の活躍がイチローや松井秀喜(38)、ダルビッシュ有(26)を導いたように。(敬称略)

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