保立道久(東京大学史料編纂所名誉教授)



 地震・噴火の研究を続けているが、なかなか最後の神話論のところに到達しない。まずは本来の仕事である8世紀以降の地震火山についての調査を優先するということでやってきたためであるが、仕事を急がなければならないことを実感している。

 現実の歴史と、この列島の地殻の動きに遅れながらついていくというのが、歴史学にとってはやむをえないことなのだと思う。ついていくことを意識しながら、遅れているのを自覚することである。それは歴史家にとっては歴史の重々しい動きというものを実感する基礎的な感覚なのであろうと思う。

 しかし、それにしても遅すぎる。

 下記は、現在の仕事の一端。最近発表したもの。南海トラフ巨大地震の歴史を確定していくことが、歴史地震学にとっては、最初の根本的な手続きであることは、石橋克彦『南海トラフ巨大地震』(岩波書店)に明らかであり、すべてはそこから出発しなければならない。

 下記の論文は、この本で石橋さんから批判をうけて、『歴史のなかの大地動乱』で述べた8世紀南海トラフ巨大地震の推定について4年ほど時期を遅らせたもの。これは建設期「平安京」の坊門の遺構がでてくれば詳細な考古学的・地質学的調査によって、もしかしたら確定するかもしれない議論である。

 いちおう、これで8世紀と13世紀については南海トラフ巨大地震の存在推定をしたことになる。残る問題は10世紀、11世紀だが、これが難しい。
 
八世紀末の南海トラフ大地震と最澄
          『CROSS TandT』52号。2016.2に掲載

 よく知られているように、南海トラフ地震は、だいたい100年から150年の周期で発生するといわれている。14世紀南海トラフ地震(1361年)以降については、それを語る資料が明らかになっているが、しかし、それ以前については、その可能性のある地震は、まず265年の間をおいて11世紀(1096年)、209年の間をおいて9世紀(887年)、203年の間をおいて7世紀(684年)という間隔になってしまう。これはおもに、それらの時代では正確な文献史料が少ないことによるのであろう。しかし文献史料の読み方によっては、さらに若干の推測が可能となる。

南海トラフを震源域とする巨大地震による津波を想定した避難訓練で国道56号宇和島道路高架部へ避難する住民ら
南海トラフを震源域とする巨大地震による津波を想定した避難訓練で国道56号宇和島道路高架部へ避難する住民ら
 ここで述べるのは、八世紀末期にも南海トラフ地震があったのではないかという推定である。それは797年(延暦16)の地震であって、もし、この推定が成立するとすると、九世紀南海トラフ地震(887年)と七世紀南海トラフ地震(684年)の間で、現状、203年の間隔があるものが、90年と113年という間隔に分割されることになる。

 さて、この、地震は、菅原道真が「六国史」などを主題ごとに整理して編纂した『類聚国史』(巻171、地震)に記録されているもので、この年、8月14日に「地震暴風」があったという記録である。これによってでた被害は「左右京の坊門および百姓屋舍の倒仆するもの多し」という相当のものであった。これはいわゆる平安遷都の直後の時期で、この時期は六国史でいえば『日本後紀』という記録があるべき時期なのであるが、この時期、『日本後紀』の伝本はなく、抄録本の『日本紀略』の同日条に「地震暴風」とあるのみである。

 問題は『日本紀略』によれば、この地震の三ヶ月前、五月一三日に「雉あり、禁中正殿に群集す」(『日本紀略』同日条)という事件があったことである。雉は雷電や地震を察知してなくという観念があって、その種本は「説文」に「雷の始動するや、雉すなわち鳴きてその頸を句げる」とあるように中国にあったが、拙著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で論じたように日本でも、そういう史料は多い。さらに問題となるのは、この雉事件の六日後、『日本紀略』五月十九日条に「禁中并に東宮において金剛般若経を転読す、恠異あるをもってなり」と金剛般若波羅蜜経の転読が行われたことが記され、さらにその翌日、二〇日条に二人の僧侶を淡路国に派遣し、仏経を転読させて、「崇道天皇」の霊に陳謝したという記事があることである。

 この崇道天皇とは時の天皇、桓武の同母の弟で皇太子の地位にあった早良親王のことである。早良親王は、785年、大伴家持などの教唆によって、桓武の近臣、造長岡京使、藤原種継を暗殺し、謀反を起こそうとした廉で処断された。しかし、彼は最後まで罪を認めず、しばらく後になって桓武も冤罪であったとして、その霊に陳謝したのである。