古谷経衡(著述家)



震災と自粛ムード

 熊本地震の直後、「さて、アニメでも見ようか…」とつぶやいた或るツイッターアカウントが匿名のユーザーから執拗な攻撃を受けていた。なんでも「(熊本地震で)人が死んでいるのにアニメを見るとは不謹慎だ」という文脈の中の批判である。前提的にアニメに対する蔑視が伺えるこの批判の背景には、「自粛」の無言の強制力が透けて見える。

 震災や事件・事故が起こるとすわ「自粛」ブームが列島を覆うが、それに逐一応えるのは果たして正しいのか。

小学校のグラウンドに避難する人たち=4月15日午前4時、熊本市中央区細工町の五福小学校(共同通信社ヘリから)
小学校のグラウンドに避難する人たち=4月15日午前4時、熊本市中央区細工町の五福小学校(共同通信社ヘリから)
 「自粛」の本質は、「この非常時に何たることか」というある種の同調圧力を背景にしたものである。非常時に部外者が躁的な行いをするのは死者に対する冒涜である、とでもいおうか。この種の声は実に戦時体制を彷彿とさせる。日中戦争が激化し、日米戦争がたけなわの頃、日本中が自粛ブームであった。「この非常時に何たることか」という同調圧力で、各種娯楽や興業が制限されていった。「前線で戦っている兵士に申し訳ない」という罪悪感以上に、そこには「国民精神総動員運動」に代表されるような「上からの」精神統制が存在していた。誰かが頑張っている時、部外者は躁的であってはならない-、という暗黙の同調圧力は、間違いなくこの国では戦時統制期に誕生した観念である。要するに部外者が「自粛」という名の仮面を被ることによって、艱難辛苦と同調しているという共同幻想を生み出すある種の装置が「自粛」という言葉だ。

 この翼賛体制ともいうべき同調の圧力は、戦後の日本社会、そして現代でも尾を引いている。前線で戦っている兵士の苦悶と、部外者である後方の「躁」は何ら合理的相関はない。例えばそれは、第二次大戦時のアメリカを見ればわかる。アメリカでは戦争中、銃後を守る婦人などが夫の留守を良いことに、フロリダやプエルトリコでバカンスをするのが流行した。日本が代用品、耐乏生活、自粛ムード一色の時、当のアメリカでの状況はこんな具合であった。物質的にも精神的にも、日本はアメリカに完敗であった。