松竹伸幸(ジャーナリスト、編集者)

政治利用一般が問題だとは思わないけれど


 熊本地震の政治利用問題でネット空間が沸騰しているようだ。政府与党の側でいうと、憲法に緊急事態条項を規定するべきだという菅官房長官の発言、米軍機オスプレイを輸送のために投入した問題が議論になっている。野党の側でも、民進党のツイッターで、一般ユーザーの「東日本大震災時の自民党のような対応を望みます」とのツイートに反論してやりとりがあり、民主党が最終的にはその部分を削除することになった。共産党の池内さおり衆議院議員も、「川内原発今すぐ止めよ。正気の沙汰か!」とツイッターに投稿したが、現在は削除されているそうだ。

 それらを見ていて、自分自身の2001年の芸予地震の経験を思い出した。当時、私は共産党の参議院比例区の候補者をやっていたのだが、地震発生の時(3月24日午後3時27分)、広島県海田町で宣伝カーに乗って演説をしていた。車が大きく揺れ、これはただ事でないと感じ、夕方には被害の大きかった呉市に直行。被害の大きかった場所を調査するとともに、市議会議員とともに市役所の防災担当者に会って、要望などを聞き取ることになる。政治家の卵としては当然の行為だと思っていたが、いまから考えると、それで良かったのかと悔いは残る。防災担当者の仕事を妨げたかもしれないし、たかが候補者が政治を動かす何かができるわけでもなく、ただの売名行為だととられても仕方がなかった(当選しなかったのは「売名」にならなかったということだけれども)。
芸予地震によって落石した現場を調査する職員=2001年3月26日、広島県河内町
芸予地震によって落石した現場を調査する職員=2001年3月26日、広島県河内町
 政治家というのは、ある政治目的をもった人間である。どんな問題であれ、政治目的のために利用しようとするのは、ある意味で当然のことかもしれない。というか、政治利用を意図しなくても、政治家の発言や行動は政治的な意味をもち、結果として政治のための利用になる。だから、震災の政治利用が一般的に問題のあることだとは思わない。しかし、議論にはなるが炎上するまでにはならない発言や行為もあれば、炎上して凍結されるものもある。それを分けるのはなんなのだろうか。

政治的意図の有無と批判は別問題


 オスプレイの問題が分かりやすいかもしれない。

 今回のオスプレイ投入が政治利用であることは疑いないと思う。東日本大震災と比べ、輸送手段が決定的に不足しているわけでもないのに、わざわざ米軍に依頼するのが、そもそも「日米連携」の強固さをうたう政治的な意図がある。その輸送手段にしても、別のやり方はあるのにわざわざオスプレイを使うのは、この際、国民に不安が残っているマイナスイメージを払拭したいという意図と無縁ではなかろう。

 しかし、それは政治的意図である。今回のような非常時の場合、問題を評価する基準がどこにあるかといえば、政治的意図に不純なものが含まれるかどうかではない。あくまで、それが少しでも被災者の役に立つかどうかだ。オスプレイが他の輸送手段と比べて十分かどうかの議論はあっても、それが被災者の役に立つ物資を運ぶという事実に変わりはない。そういう場合、オスプレイ投入の政治的な意図は批判することはあってもいいが、投入自体を批判するようなことがあると、被災者を助ける行為を妨害していると受け取られることになってしまう。

 オスプレイ投入自体への批判が正当性をもつとしたら、それが被災者に迷惑をかけるという論理が通用する場合だけだ。実際、過去のいろいろな場面で、オスプレイが起こした問題が指摘されている。2014年、和歌山県で実施された防災訓練において、オスプレイの離陸後に排気熱で芝が焼け、消火活動に追われるという本末転倒の事態が起きたそうだ。15年4月のネパール地震の際、オスプレイが被災者救援中、民家の屋根を吹き飛ばしたこともあるという。

 ただ、米軍だってそういうことは考慮して離発着場所は決めるだろうし、投入によって得られる「実益」があるわけだ。だから、投入反対というより、せいぜいどっちが利益かという比較考量の話になるだろうとは思う。