パオロ・マッツァリーノ(日本文化史研究家)

 じつは謝罪という行為は、なにひとつとして問題を解決していません。それどころか、謝罪は問題の本質をあいまいにする目くらまし効果によって、根本的な解決や改善をかえって遠のかせてしまうのです。

 人間は必ずミスをします。そのミスをどうカバーするか、そしてミスの再発防止のためにどんなシステムを構築するか。尽力すべきはそこですよ。なのにちかごろの日本人ときたらどうですか。謝罪という生ぬるい感傷でいかに問題をうまくごまかすか、そればかりに熱心になってしまいました。

高木京介投手の野球賭博関与について謝罪するプロ野球巨人の久保博球団社長(右から2人目)ら=3月8日、東京都千代田区(三尾郁恵撮影)
高木京介投手の野球賭博関与について謝罪するプロ野球巨人の久保博球団社長(右から2人目)ら=3月8日、東京都千代田区(三尾郁恵撮影)
 重大な副作用に気づかずに、謝罪という行為に値千金の逆転満塁ホームランのような効果があると妄想し、過大な期待を寄せる日本人は、こどものころから道徳の時間に、失敗したら素直に謝りましょう、と繰り返し刷り込む教育を長年続けてきました。

 その努力が結果にコミットしはじめたのか、だいたい西暦2000年ごろから日本では、謝罪会見という儀式がそれまでにはなかったくらいの頻度で執り行われるようになりました。自分とはなんの関係もない芸能人・著名人が開く謝罪会見の模様を見て、その所作の出来不出来で罪の軽重と人間性を判定する悪趣味なゲームは、国民的娯楽としてすっかり日本人のあいだに定着したのです。

 謝罪が問題解決の役に立たないという真理を理解できないかたのために、簡単な例でご説明しましょう。

 人混みを歩いていて、前の人のかかとをうっかり踏んでしまったら、「すいません」と謝罪しますね。

 なんだ、謝罪で問題は解決してるじゃないか? いいえ、それは誤解です。かかとを踏まれたという問題に対して、なんの解決案も再発防止策も提示されてないのですから。

 われわれはこのミスを教訓に、いかにすれば他人のかかとを踏まずに歩けるのか、それを研究・練習して事故を未然に防止することで問題解決へ向けて一歩でも前進しなければいけないはず。

 しかし謝罪という対応によって、かかとを踏んだのはわざとではないと宣言することで、悪意があったか否かというところに論点がずれてしまうのです。

 謝罪は問題の本質をあいまいにし、論点をすり替えてしまいます。非生産的なごまかしでしかないのに、それに釣り合わぬくらいに高い精神的満足感を、多くの人に与えてしまいます。

 だからわれわれは死ぬまでに何度も、他人のかかとを踏む単純ミスを繰り返すことになります。

 謝罪は問題を解決に導かないばかりか、再発防止の役にも立たないんです。二度と繰り返しません、と涙声でいったところで、具体策を伴わなければ必ず再発します。

 こんな愚かな手段なのに、多くの人が謝罪に重きを置いて、謝罪のうまいヘタで有罪無罪を決めようとするさまは滑稽としかいいようがありません。謝罪がうまい人は、問題解決に長けているのではありません。ごまかすのがうまいだけなんです。カン違いしてはいけません。