北条かや(著述家)

 今やすっかりお馴染みの議論になってしまった、「子どもの声は騒音か」問題。先日は、待機児童問題が深刻な千葉県市川市で、4月に開園予定だった私立保育園が近隣住民の反対を受け開園できなくなった。周辺は静かな住宅街で、高齢世帯が多いエリアだそうだ。報道によると、社会福祉法人の説明会が複数回なされたが、「子どもの声は騒音になる」「保育所が面する道路が狭くて危険」などの意見が根強く、断念した。反対運動を起こした住民たちに対しては、「子どもは社会で育てるべきなのに、受け入れないとは何事か」という批判も寄せられているようだ。しかし、批判の前に「大前提」を確認しておく必要があるのではないか。

「地域コミュニティの衰退」では不十分


 私は子どもが好きだが、やはり子どもの声は「うるさい」。物心つきはじめる4~6歳くらいの子どもたちと遊んでいると癒やされるが、時に彼らは突然「キャーッ!」と叫んだり、耳をつんざくような泣き声をあげたりする。心身ともに疲れている時には、とても相手ができない……こともある。しかし、子どもとは元々そういうものだ。うるさいし、はしゃぐし、それが集団になればすさまじきこと限りない。彼らはただ全力で生きているだけで、そのあり方は何百年も変わっていない。ではなぜ近年、一部の大人が「子どもの声は『騒音』で『迷惑』」と主張するようになったのか。
 問題は14年、神戸市の保育所をめぐり、近隣の70代男性が「子どもたちの声がうるさい」として訴訟を起こしたあたりから騒がしくなった。14年末からマスコミも取り上げ始め、NHKはクローズアップ現代で「子どもって迷惑?~急増する保育所と住民のトラブル~」と報じている(2014年10月29日放送)。

 今のところ、住民と保育所側の対立要因として挙がっているのは、「送迎の車による事故の危険性が増す」「子どもの声が騒音になる」など、住民たちが抱える環境変化への不安。そして、その背景には「地域コミュニティの衰退」や、「社会の寛容性が失われたことがある」などと説明される。私はこうした議論に今ひとつ、納得がいかない。納得がいかないというより、問題の背景説明としては不十分である。

 「地域コミュニティが衰退し、社会の寛容性が失われた」と嘆く論調は、たとえばこんなふうだ。

 「昔なら路地裏で子どもたちが大声で遊んでいても、誰もなにも言わなかった。となり近所の顔が見える地域コミュニティが機能しており、地域全体で子どもを暖かく見守っていた。それが核家族化――に加え、時には“行き過ぎた個人主義”によって――地域コミュニティが崩壊し、子どもを異質なものとみなす住民が増えた。社会の寛容性がなくなり、――これまた時には“行き過ぎた個人主義”によって――我慢せずに個人の権利を主張することが当たり前になった。だから子どもの声に対しても寛容性を示さず、自らの権利を訴える人々が増えているのだろう」(※“行き過ぎた個人主義”の是正は、現政権が憲法改正の俎上に乗せたいところでもあるから、あえて強調しておいた。ここで深くは議論しないが、問題が「戦後日本の『自由』と『個人主義』」を反転させる方向へ転がっていかないよう、願ってはいる)