高橋透(早稲田大学文化構想学部)

 現在、AI技術の台頭が目覚ましい。チェスにはじまり、将棋、囲碁、そしていわゆるグーグルのネコに見られるように、人間に教えられることなく画像を認識し、あるいは音声を認識し、さらには作曲、小説執筆さえも手掛け、ビッグデータ解析に見られるように、経済や経営にまでも、その多大な威力を発揮しつつある。それどころか、AIは「暴走」する可能性を秘めており、将来的には人間(あるいは人類)の知性をも凌駕するハイパーAIといったものが登場し、人間・人類の能力をはるかに凌ぐ地点、すなわち「特異点(シンギュラリティー)」(レイ・カーツワイル)が訪れるであろう、といったことまでもが話題になりつつある。私は、西洋哲学の研究者であり、AIの専門家でもなければ、エンジニアでもないので、哲学的立場からAI技術について考察を試みたい。
 結論を先に述べておこう。私の、哲学の徒としての着目点は、人間の「欲望」にある。後段で詳述するが、こうした欲望を抱えているかぎり、人間は自分を超え出るなんらかの存在を、一面では不安に苛まれつつも、さらには恐怖に慄きながらも、他面ではそれに期待を寄せ、それを希求して止まないであろう。人間は、人間を凌駕するハイパーAIとでもいったものの出現を恐れながらも望んでいるのだ。これが人間の性(さが)なのである。そうであれば、現在のAI「ブーム」が一過性のものに終わるのか否か、あるいは具体的にいつハイパー知能といったものが出現するのか、といった問いは、ここでは脇に置いておくことにしよう。むしろ、人間が自分を凌駕する存在を欲望して止まないのだとすれば、人間自身はそうした存在にどのように向き合うべきかをそろそろ考え始めてしかるべきであるということを主張したい(なお、以下の「AIと人間の欲望」は、「サイボーグについて」で述べる結論部分への哲学的論拠づけである。したがって、結論だけを読まれたい場合には先に「サイボーグについて」をお読みください)。