落合陽一(メディアアーティスト、筑波大助教)

 「ムーアの法則」という言葉を耳にする機会が減った。CPUの半導体集積度とクロックは、最終的に消費電力と熱の問題から一定の頭打ちになり、多コア化や低消費電力化が進んでいる。大抵の物理的デバイスの工学的限界点は熱による問題に帰結する。熱は拡散方程式に従うのみで、波動性を持つ物理現象と異なり、人のコントロールが極めて難しい。アトムの世界での過密さはビットの世界の過密さを創り出すきっかけでもある。

 近頃、人工知能に関するワードを聞くことが増えた。あらゆる機械学習手法が今、人工知能というバズワードでまとめられ世間を賑わせている。そういった中、「人工知能は人の手を離れ暴走するか?」というような考えについて意見を求められることも多々ある。SF映画の影響を多々に感じる問題提起だが、道具としての人工知能が暴走する可能性は低いだろう。それは人間が与えた権限の内側でしか行動を起こさないからだ。人による調停機能を持つ限り、人工知能は「人に対しては」暴走しえない。なぜなら人類は人工知能の権限を奪うことができるからだ。

 しかしながら、考えのフレームを変えてみよう。「人と人工知能の組み合わせは暴走しうるか?」という答えに関しては暴走しうるといわざるをえない。人の集団の中で、人工知能を上手く駆使しうる人々がその他の人々を迫害する可能性は多々ある。我々は今、人工知能に職を奪われるのではなく、人工知能を駆使しうる限られた人類によって、他の人類が統治されうるような歴史的変革点にたどり着いているのだ。人の敵は常に人であり、市場の奪い合いをしているにすぎない。ただ、「それが善悪の判断になるのか?」といえば、僕は善でも悪でもなく必然だと考えている。テクノロジーは進歩するし、その中で人の生き方は変わっていく。王政が行われていた中世と比べ、人権宣言以降、産業革命以降の人類は一人一人の人間的な価値を高めようとしてきたが、人工知能によってその知的なそして機能的な価値は相対的に目減りしつつある。人は社会システムの中で低エネルギー消費のロボットとして生きることが自然になりつつあるからだ。そこには機能的価値と尊厳的価値を切り分ける必要はあるものの、資本主義の暴力的な側面が、機能的価値の相対的な低下から、尊厳的価値をないがしろにすることは想像に難くない。

 このような人と計算機データの構造的結びつき、および人工知能の発展を「梃子(テコ)の原理」から見直してみよう。僕は現状の人工知能の発展をデータの梃子として見ている。運動のモーメントを変換する梃子の発見により、我々人類は数千年前から力学的法則を駆使することによって建築をしたり計量をしたりすることが可能になってきた。この概念は様々なところで用いられている。例えば金融市場におけるレバレッジも、我々が駆使する梃子の一つだ。なぜ近年人工知能の話題を多く聞くようになったか、それはデータの梃子を作れる程度にデータ量が増大し始めたからである。多くのデータを投入することで、データを復元したり保管したりする。そんな梃子がビックデータであり、深層学習だと僕は捉えている。そう捉えると人工知能は魔法ではない。データ量の力学から見出された現象の一つだ。データがなければ動かず、そしてゴミデータからはゴミしか出てこない。

 最近、なぜそのようなデータが増大するようになったかということを考える機会が増えた。インターネット、Web、SNS、などの要因は多いものの、僕は決定的変化としてはスマートフォンの影響が大きいと思う。スマートフォンとソーシャルネットワークおよびアプリストアの普及による商業的生態系だ。この生態系自体はユビキタスが予言されたときには想定されていなかっただろう。スマートフォンがもたらすのは、インターネットに接続された小型映像送受信装置+各種センター+文字のタグ付けだ。エジソン以降、映像装置の発明以降の人類は「双方向的ビジュアルコミュニケーション」によって,共通のイメージを形作り社会を成立させてきた。イメージによるコミュニケーションにより世論を形成する手法は1920年以降、映画の文法が発展し、主流になっていく。例えばヒトラー政権がベルリンオリンピックをテーマに『オリンピア』を公開した事例などに見て取れる。