植松三十里(作家)


 幕末、17歳にして佐賀藩主に就いた直正は、投錨中だった長崎のオランダ船に自ら乗り、衝撃を受ける。その肌で、日本と西洋列強との軍事技術の差の大きさを感じたのだ。そして若き藩士たちとともに、近代化に向けたプロジェクトに挑んでゆくのであったが…。
大砲鋳造の図。直正のもと、嘉永3年(1850)から建設された築地反射炉の様子を描いている。築地反射炉は薩摩や韮山に先駆けた日本初の洋式反射炉であった(公益財団法人鍋島報效会蔵)
大砲鋳造の図。直正のもと、嘉永3年(1850)から建設された築地反射炉の様子を描いている。築地反射炉は薩摩や韮山に先駆けた日本初の洋式反射炉であった(公益財団法人鍋島報效会蔵)
 

若き藩主の改革と決意


 鍋島直正は江戸藩邸の生まれ育ちで、17歳の時に藩主の座につき、初めてのお国入りとして佐賀に向かうことになった。ところが大名行列の出発に際し、醤油屋や酒屋などが売掛金の支払いを求めて藩邸に押しかけ、出発を延期しなければならなくなった。

 佐賀藩邸は現在の日比谷公園の一角で、周囲はそうそうたる大名屋敷。出発の遅れは、すぐに噂になっただろうし、直正は初のお国入りという晴れがましい出だしから、屈辱を味わわされてしまった。

 それでも佐賀に着くと、すぐに長崎の視察に出た。これを進言したのは儒学者の古賀穀堂だろう。儒学者というと守旧派のイメージがあるが、長年、長崎警備を務めてきた佐賀藩の学者だけに、特に西洋事情に通じていた。

 古賀は、直正が6歳の時から御側頭を務め、翌年からは学問を教えた。直正はフェートン号事件の6年後に誕生しており、対外的な危機感や佐賀藩の責任を教えこんだのも穀堂だ。

 直正は長崎に赴くと、投錨中だったオランダ船に乗せてもらい、西洋との軍事技術の差を実感する。毎年、来航していたオランダ船は商船ではあるものの、海賊対策として大砲を装備していたし、船体の大きさが和船とは格段に違った。

 一方、佐賀藩が守るべき湾口の台場は、旧式な小型青銅砲が置かれているのみ。もしも、再びフェートン号のような無法な異国船が来航したら、防ぎようがなかった。

 なんとしても充分な備えが必要だったが、江戸藩邸の売掛金にも困るほど、藩は膨大な借金を抱えており、先立つものがない。そのために、直正はまず財政改革を目指した。しかし父の代からの重臣たちが反対勢力になり、倹約策程度しか実現できなかった。

 天保4年(1833)、直正が22歳の時に、佐賀城の二の丸が火事で全焼。藩庁として使っていた建物だけに、もはや政務を執る場所もない状態に至った。だが、ここまで来たら誰も文句は言うなとばかりに、直正は改革実行に転じた。

 古賀穀堂の助言を得て制度を見直し、思い切って人員を整理する一方で、幕府から2万両を借り受けた。主家からの借金は、江戸や大坂の豪商たちから借りるよりも、はるかに低利だった。直正の正妻は将軍家の姫であり、その縁を頼ったのだろう。

 その後、直正は、オランダ陸軍少将のヒュゲニンが著した『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書を手に入れた。鉄製大型砲の鋳造方法を解説した書物だ。反射炉の図面も載っており、これを佐賀で造ろうと決意する。