肥前佐賀藩主・鍋島直正は幕府から命じられた長崎御番(ごばん)(警備)という大役に真正面から向き合い、「日本の国難に佐賀藩としていかに備えるか」という課題に生涯熱中した。藩主に就任して10年目に起きたアヘン戦争(1840~42)に最も鋭く反応した日本人の1人でもあった。

 大国・清が英国の凶暴な軍事力に手もなく打ちのめされ、半植民地状態に転落する様を長崎に来たオランダや清国船の風説書(ふうせつがき)で知った直正は弘化元(1844)年、オランダ国王の使節が開国勧告に長崎に来航したときは、オランダの軍艦パレンバン号に乗り込み、船内を見学。鉄製大砲の国産化を決意した。

 まず、「火術方(かじゅつかた)」を新設する。西洋砲術家はもとより洋学者・和算家・刀鍛冶・鋳物師まで総動員し、火器の開発研究と製造、砲術・銃隊の訓練に着手。さらに、佐賀出身で昌平坂学問所教授の古賀侗庵(とうあん)の国防策『海防臆測(おくそく)』を基に、長崎港防衛のため新台場を築造して高性能の洋式鉄製大砲一〇〇門を配備する壮大な計画を立てた。財政難などから福岡藩、幕府が尻込みすると、直正は幕府の許可を取り、佐賀藩単独で製造、築造に取り組む。わずか一冊の蘭書を頼りに独学と手探りで洋式反射炉建設と鉄製大砲製造に満2年でこぎつけた佐賀藩火術方の奮闘は、日本の科学技術史上の快挙とされている。
佐賀藩の海軍基地となった三重津の船手稽古所の図=鍋島報效会蔵(佐賀城本丸歴史館提供)
佐賀藩の海軍基地となった三重津の船手稽古所の図=鍋島報效会蔵(佐賀城本丸歴史館提供)
 この成功と同じ嘉永5(1852)年には、藩直属の理化学研究所ともいうべき「精煉方(せいれんかた)」を開設。大坂の適塾(緒方洪庵塾)をへて江戸の象先(しょうせん)堂(伊東玄朴塾)塾頭になっていた藩士・佐野常民(つねたみ)を呼び戻す。佐野は帰藩に際して「からくり儀右衛門」とはやされた異能の器械師・田中久重父子や蘭方科学者・石黒寛次、物理・化学者の中村奇輔の在野4人を同伴。彼らは蒸気機関の模型をはじめ、雷管・電信機・火薬・機械・金属・ガラス・薬品など多彩な技術開発に成果を上げる。精煉方はハイテク日本の先駆けとなる超一流の研究機関で、その人材は明治に引き継がれる。

 黒船の来航で開国に踏み切った幕府は安政2(1855)年、海軍近代化のためオランダの協力で長崎「西の奉行所」(現在の長崎県庁、出島の北側)に「海軍伝習所」を置き、オランダ国王から将軍に贈られた気帆船スンビン号(日本名「観光丸」=全長53メートル、720トンの木製外輪蒸気船)を操る実地訓練を開始することになった。伝習生は計130人。幕府からは勝海舟や榎本武揚(たけあき)ら40人の幕臣が派遣されたが、佐賀藩からは佐野、石黒ら火術、精錬方の俊秀48人が送り込まれ、伝習所はさながら幕府と佐賀藩のための訓練所になった。

 直正はこの伝習所も視察し、オランダ人教官たちと交流している。伝習隊長のカッテンディーケの記録『長崎海軍伝習所の日々』には、直正が伝習所の士官たちを長崎湾を見下ろす別荘に招待し、旺盛な好奇心と知識欲、オランダに対する親近感などを示したことが生き生きと描かれている。

 2年後、佐野は直正に「佐賀藩海軍創設建白書」を提出。翌安政5年、佐野の郷里でもある三重津(みえつ)(佐賀市川副町・諸富町)に「船手稽古所(ふなてけいこしょ)(海軍学校)」を仮設し、藩独自の伝習と造船が始まる。三重津には佐賀藩が購入した艦船が続々と集結し、近代日本海軍発祥の地となった。慶応元(1865)年には国産初の蒸気船「凌風(りょうふう)丸」(長さ18㍍、幅3・3㍍、10馬力)がここで進水する。

 佐賀藩海軍は明治2(1869)年、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘となった箱館(函館)戦争(五稜郭の戦い)に政府軍として出動し、榎本武揚率いる旧幕艦隊と激突する。派遣した3隻のうち「朝陽丸」は旧幕府軍の砲撃で火薬庫が爆発を起こして沈没、艦長の中牟田倉之助(のち海軍中将)が重傷、乗員51人が即死するという大惨事に遭うが、海戦には勝利し、戊辰(ぼしん)戦争の幕を引いた。「薩長土」に「肥」が並んだのである。