湯浅博

往生際が悪い朝日新聞 


 その前夜、ある言論人から「朝日新聞が明日の朝刊で、ついに慰安婦問題の検証記事を載せるらしい」との情報が寄せられた。朝日による誤報や誤用が、どんなに日本と韓国の関係をこじらせてきたことか。

 朝日が真摯に事実と向き合って訂正・謝罪をすれば、日韓関係はもちろんのこと、米欧からの対日感情が好転するきっかけになるのではないかと考えた。

 ただ、新聞記者として「報道内容が事実と異なった」と既報内容を取り消すことは苦渋以外のなにものでもなく、その勇気を待ちかねていた。

 自社の慰安婦報道を検証すると決定して以来、誇り高き朝日人にとっては恥辱の日々であったに違いない。社内に検証チームをつくり、過去の報道ぶりを子細に点検し、正邪を仕分けする作業は憂鬱な仕事である。やむを得ざる場合には、新聞社を支えてきた先輩記者を追及しなければならない。

 誤りを認めて報道内容を取り消し、そのうえで読者にどうお詫びするのか。あるいは、しないという選択肢はあるのだろうか。

 検証チームのキャップと記者たちは、その重圧と戦ってきたのではないか。「存亡の道、察せざるべからざるなり」で、よくよく熟慮が求められる。

 日本を代表すると信じた新聞社の浮沈と、国際問題に発展させてしまったことへの責任と、なにより事実の追求を旨とするジャーナリストとしての誇りとの葛藤になる。なぜなら、最終的に社の幹部の指示と手直しの筆が入るだろうからである。

練られた掲載のタイミング

 八月五日、その日の朝日新聞朝刊の取り組みは、私が期待したものとはほど遠いものであった。一言でいえば、潔さに欠けて往生際が悪い。一面の左肩で「慰安婦問題の本質 直視を」と見出しを掲げ、編集担当の杉浦信之氏が署名記事でエッセー風に事の末を書いていた。

 だが、読者がこの見出しだけで取り消しや訂正記事と判断するのは、ほとんど不可能である。実際に私の周囲でも、朝日に目を通していながら気づかない人が多かったのはそのためである。「慰安婦問題の本質 直視を」などと、いまさら朝日からお説教を読まされてはたまらないからだ。

 それは新聞人の悲しい性で、訂正はできるだけ目立たぬよう記事のなかに埋め込み、新聞のダメージを「極小化」する本性が表れてしまう。

 で、その一面の署名記事を読み進めると、様々な手法を駆使したダメージコントロールの“名文”であることが分かる。「論点を整理した」という見開き二ページの検証記事「慰安婦問題を考える」に繋げる形で、全体を見事に集約している。

 ただし、その手法とは「転嫁」「曲解」「相殺」「すりかえ」であったと読み取ることができる。もう一つ、「無視」というのもあった。

 掲載日のタイミングも、周到に練られていたと思われる。朝日にキバを剥く週刊誌の発売日は毎週木曜日で、定期購読者である私どもには水曜日に届けられる。

 検証記事の掲載日となった八月五日はその前日の火曜日であり、とても締め切りには間に合わない。ましてこのときの週刊誌はお盆休みの合併号だから、次の発売は二週間後になって、途端に情報の鮮度は落ちるだろう。

 つまり、朝日は孫子の兵法でいうところの「天の時を知る」との便法で一気に勝負をかけたと思われる。 「火を発する時あり、火を起こすに日あり」(火攻篇第十二)

 事の発端は、韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言にある。吉田氏は戦時中に、「山口県労務報国会下関支部」の動員部長だったと自称している。

 この人物が書いた『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』に触発されて、朝日は一九八二年九月、「済州島で二百人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」とする吉田氏の発言を鵜呑みにした。これが日韓の歴史認識を大きく歪める結果に繋がる。

 それは単純明快であった。悪玉を発見したことで人間の闘争心がかき立てられ、その悪玉を善玉が除去していくことが正義になった。韓国紙は朝日の記事をヒントに独自解釈を施し、活動家が介在して米国に“輸出”され、やがて国連の人権委員会に届くことになる。

 しかし、産経新聞が九二年四月三十日付の朝刊で現代史家、秦郁彦氏の調査から吉田氏の証言に疑問を投げかける記事を掲載し、一部の週刊誌も「創作の疑い」を報じた。

 にもかかわらず、火付け役の朝日が訂正記事を出さないために、韓国では慰安婦の強制連行が実際にあったとする最大の根拠の一つになっていく。結果的に韓国の反日世論を煽っただけでなく、日本に関する誤った認識が広く世界に流布されることになった。 

誤報の「極小化」と「相殺」


 かつて、日米安保条約が「戦争に繋がる」と主張した人々が、いまだ日本が「戦争に巻き込まれる」どころか平和を享受してきたように、その事実に対して真に答えることは困難になる。前言を訂正しない限り、彼らは沈黙するか、「これから巻き込まれる」とごまかす以外になくなるのと同じ現象が慰安婦問題のロジックにはある。

 今回の朝日による検証記事は、吉田証言を初めて虚偽と判断し、それに関連する一連の記事を初報から三十二年後に、ようやく撤回したのである。しかし、内容を読み込むと孫子のいう「兵とは詭道なり」で、随所に目くらましが施されていることが分かる。

 たとえば、コラムのような一面の署名記事には、九七年三月にも慰安婦問題の特集をしたが、「その後の研究の成果も踏まえて論点を整理しました」とある。そもそも訂正なのか説明なのか、初めから検証記事の目的がはぐらかされている。

 続いて、慰安婦問題に光が当たり始めた九〇年代初めは、いまだ「研究は進んでいませんでした」と専門家に責任を「転嫁」する。そしてようやく、「記事の一部に、事実関係の誤りがあったことがわかりました」と、誤報の「極小化」が図られた。

 ところが、その後にすぐに「似たような誤りは当時、国内の他のメディアや韓国メディアの記事にもありました」と他紙との「相殺」効果を狙ったものの、かえって自社の誠意が伝わらない。

 初期の頃の報道については、他紙を道連れにしようとしたつもりなのだろう。これが逆効果だったというべきか。

 あとは、朝日が常用する「だからといって……」式の自己弁護に移る。

 署名記事はいう。朝日の不正確な報道が慰安婦問題を混乱させているとの外部からの指摘はあるが、だからといって「慰安婦問題は捏造」「元慰安婦に謝る理由はない」という議論には同意できない、のだそうだ。

 しかし、その同意できない二つの反論は「曲解」としか思われない。朝日への批判は、「朝鮮人女性を強制連行した」とする吉田証言に疑問がありながら、そのまま放置してきたことにある。

 そして朝日批判者たちも、私が知る限り、元慰安婦に対しては謝罪すべきであると考えており、あくまでも強制連行について疑問を呈しているのだ。

問題の本質のすり替え

 朝日は八二年以降、確認できただけでも計十六回にわたって吉田氏の件を記事にしており、九二年に秦郁彦氏が吉田証言に疑問を呈しても修正することはなかった。

 巨大な組織が成熟してくると、システムは必然的に官僚化してくる。不幸なことに、「大衆世論というものは、危局に際して破滅的なまちがいを起こしてきた」とするウォルター・リップマンの言葉と似た“社内世論”が醸成されてしまったのではないか。

 今回の検証記事は、いまだその臍の緒が切れていないように見受けられる。「強制連行の有無」が慰安婦問題の核心であるのに、「慰安婦として自由を奪われ、女性として尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです」と問題を巧みにすりかえている。

 そうした論理矛盾は、一九八二年に起きた日韓歴史問題の最初の誤報事件である教科書問題の処理と同じ文脈で捉えることができる。

 この年の六月二十六日付朝刊各紙は、一斉に、当時の文部省が発表した教科書検定結果を大きく報じた。ある高校の世界史の教科書で、日本軍が華北に「侵略」とあったのが、文部省の検定で華北に「進出」と書き改められたという内容だった。これが事実なら、文部省に何らかの意図があったと見られても仕方がない。

 それから一カ月後に、中国政府が日本に「歴史を改竄した」と抗議し、まもなく韓国政府も追随した。当時の日本政府はたちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、鈴木善幸首相は記者会見で「中国、韓国の納得できる形で処理したい」と弁明せざるを得なかった。このときに出されたのが悪名高い宮澤喜一官房長官談話で、中国と韓国の脅しに屈したとしか思えない内容だった。

 ところが、宮澤談話が発表されたあとに、月刊誌や週刊誌が「侵略」から「進出」への書き換えの事実はなく、誤報だったと報じた。騒動の端緒は、「文部省記者クラブのささやかな不注意にあったのだ」との結論にいたった。
 

絶対に謝罪をしない


 産経新聞はその後の独自取材を経て、九月七日付朝刊で「読者に深くおわびします」「教科書問題『侵略』→『進出』誤報の経過」という四段見出しの異例の謝罪記事を載せた。

 ところが、産経以外はほんの微調整で済ませていたといえる。では、同じ誤報をした朝日はどうしたか。

 九月十九日付の朝日朝刊に社会部長名の囲みの記事で、「一部にせよ、誤りをおかしたことについては、読者におわびしなければならない」としながら、「ことの本質は、文部省の検定の姿勢や検定全体の流れの中にあるのではないでしょうか」と書いていた。

 自らの失敗を糊塗する問題のすりかえである。誤報によって中国と韓国の抗議を引き起こしたことへのメディア側の責任には一切、触れていない。

 もう一度、今回の「慰安婦問題を考える」との検証記事に戻れば、同じ論理の展開をしていることが分かるだろう。「強制連行の有無」が問題の核心であるのに、慰安婦が女性としての「尊厳を踏みにじられたことが問題の本質」とすりかえられたのによく似ていよう。

 あの一面署名記事の見出しも、「慰安婦問題の本質 直視を」と抽象化してしまっていた。そこに、ある種の偽善が入り混じる。自分の失策を「極小化」して、「問題の本質」という一般論を「極大化」して矛先を逸らしているのである。

 では、八月五日付の一面で「事実関係に誤り」と認めた結果、一体どこで取り消しか訂正をしているのだろうか。それは見開きページの一番下のごく小さな囲み「読者のみなさまへ」のなかにある。

 そこに「吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」とあるだけで、なぜか謝罪の言葉がない。おそらく「取り消し」は「訂正」ではなく、したがって、謝罪するべき性格のものではないと考えているのかもしれない。

都合悪いことは「無視」


 問題はそれだけでなく、韓国人を激高させた一九九二年一月十一日の一面記事で、女子挺身隊と慰安婦を結び付けた記事である。それは「従軍慰安婦」を解説する記事で、「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる」とあった。

 挺身隊とは女性を軍需工場などで勤労動員する組織で、慰安婦とはまったく関係がない。検証記事は、当時の記者が参考にした資料が両者を混同していたことから誤用に繋がったと釈明している。

 検証記事はまた、強制連行を根拠づける吉田証言を否定しながら、インドネシアや中国の事例を挙げて、「兵士が現地の女性を無理やり連行し、慰安婦にしたことを示す供述が、連合軍の戦犯裁判などの資料に記されている」と書いて、なおも強制性があったことを強調している。

 内閣外政審議室審議官の話として伝えた東京基督教大学の西岡力教授によれば、これらは明らかな犯罪行為として裁かれている事例であるという。

 その一つが、インドネシアで日本陸軍部隊がオランダ人捕虜の女性たちを強制的に売春宿で働かせた「戦争犯罪事件」である。戦後、オランダが行った戦争犯罪裁判で裁きを受け、軍人と民間人が死刑になっている。

 今回の慰安婦問題とは明らかに別件であるにもかかわらず、ここでも「相殺」効果を持たせようとインドネシアなどの事例を挙げているとしか思えない。

 その挙げ句に、「問題の本質は、軍の関与がなければ成立しなかった慰安所で女性が自由を奪われ、尊厳が傷つけられたことにある」と、ここでも例の「問題の本質」論で逃げを打っている。まことに往生際が悪い。

 ほかにも、都合の悪いことは検証記事の対象にしない「無視」という究極の手法もあった。これは朝日の翌六日付特集面の「3氏に聞く」の秦郁彦氏が指摘しているように、米軍がビルマで捕虜にした朝鮮人慰安婦たちの尋問調書から明らかになった「慰安婦が置かれた境遇」のことである。米軍が慰安婦たちから直接、聞き取り調査しており、米国立公文書館の公開文書で事の末が明らかになっている。

 彼女たちは一カ月に三百円から一千五百円という当時としては決して悪くない稼ぎを得て、「都会では買い物も許された」という報告書である。秦氏は彼女たちが兵士の数十倍という高収入を得ており、故郷に送金までしていたという。「なぜか国際常識化しかけている性奴隷説に朝日は追随しようとしているかに見える」と結論づけていた。

 朝日は検証記事への掲載を見送ることで、米軍という第三者の記録を見事に「無視」してしまったのである。
 

精神的便秘状態


 自社の報道に記者が疑問を抱いたとしても、ある種のタブーから自由ではあり得ないのかもしれない。報道メディアやそこから派生する世論は、かくも過ちを犯し、政治的な環境や一時の熱狂に動かされやすい性格がある。しかし、メディア以外に政治権力に対する有効な制約が存在しないことも事実であり、なおも民主政治を補完する有力なチェック機関であることに間違いはない。

 では、これら八月五日付の検証記事によって、朝日の「ダメージ極小化」は成功したのだろうか。一つの手掛かりとして、八月十一日付の産経・FNN世論調査では、一部を誤報だと認めた検証発表について「十分だと思わない」とする回答が七割を超えていたという事実である。

 七日に放送されたフジテレビの「新報道2001」の世論調査でも、六割以上が朝日の慰安婦報道が日韓関係を悪化させたと回答しており、これらの調査結果を見る限り、「極小化」には遠いようだ。

 朝日報道が慰安婦の「強制連行」イメージを国際社会に流布したとの印象は、今回の検証記事が掲載される以前から一般に広く持たれていたと思う。

 しかし、検証記事を伝える新聞各社やテレビ報道から、改めて朝日による「三十二年後の撤回」に不誠実を感じ、「記事を取り消します」との表現を含む説明に潔さを感じられなかったのではないか。

 新聞社が痛手を恐れるあまり検証記事に技巧をこらし過ぎ、全体として責任回避の印象をもたれたのであろう。

 防衛大学校名誉教授の佐瀬昌盛氏にいわせると、朝日はメンツゆえに精神的便秘状態に陥ったのだという。あまりきれいな比喩ではないのだが、大腸から強制的に排泄するのは吉田清治氏の慰安婦強制連行説だけにして、女子挺身隊と慰安婦の混同は「誤用」で済ませた。

 ただ、佐瀬氏は「世の中、そんな使い分け自在の浣腸があるだろうか」と皮肉っている(産経「正論」欄)。

 自らを省みても、新聞やテレビなどのメディアが生情報を扱う限り、ある程度の誤報や誤用は避けられないのかもしれない。あるいは、誤報・誤用とまではいえないグレー領域の過誤の扱いは難しい。頬被りするか、誤りを認めるか。

 問題はそうと分かったときのメディア側の素早い軌道修正、取り消し、訂正、謝罪などによって、誤報の独り歩きや再生産を防ぐことが重要であり、組織の姿勢が問われることになる。

NYタイムズの誤報事件


 たとえば二〇〇三年五月十一日、米紙ニューヨークタイムズは同紙の二十七歳の記者が七カ月で三十六本の捏造や盗用があったとして、一面トップ扱いで報じたことがある。映画にもなった有名なジェイソン・ブレア事件だから、ご記憶の方があるかもしれない。

 タイムズ紙はこの一面記事とは別に、四ページにわたる詳細な経過報告を掲載した。一面記事では、痛恨の思いは「百五十二年の歴史で極めて深刻な不祥事である。信用を深く傷つけた」と表現していた。

 長文の報告では、国内報道部に所属のジェイソン・ブレア氏が、イラク戦争で負傷した米兵士と会ってもいないのにインタビュー記事を捏造し、ワシントン周辺で起きた連続狙撃事件では関係者の談話などを創作した。

 編集局では、ブレア記者が取材に行ったふりをして携帯電話で連絡してきたり、メールを送ってきたりしたことから長く気付かなかった。

 発覚は、狙撃事件の地元検察局が「重大な誤り」を指摘して社内でも問題になっていた。しかし、ブレア記者が編集幹部に目をかけられていたことから指摘しにくい雰囲気があったという。タイムズ紙はブレア記者のような黒人記者を積極的に登用していた。意識的に差別を避ける社内傾向が、逆に発覚を遅らせた一因でもあった。

 検証報告はこれまでの捏造に至る経過を克明な事実で積み重ね、個人の資質から不正の原因に至るまで言及していたことから、世論の一定の評価を獲得した。

 この事件によって、タイムズ紙は編集主幹と編集局長が辞任し、発覚後には外部識者からなる再発防止のための調査委員会を設けて二度と捏造記事が出ない体制を整えた。すべてのメディアにとって、捏造や誤報をなくすための参考になるのではないか。
 

自虐思想の一角を崩す


 もっとも、そのタイムズ紙も最近は日本非難に熱心なあまり事実を歪曲し、批判を受けても素知らぬ顔をすることがあるから油断がならない。

 タイムズ紙の社説は「安倍氏の危険な修正主義」として、安倍晋三首相が「南京大虐殺」を否定し、慰安婦への謝罪をご破算にするつもりだと非難した。

 ジャーナリストの櫻井よしこ氏によると、ジョージタウン大学のケビン・ドーク教授が、同紙の指摘がいずれも事実でないとして「事実誤認の非難は許されない」などと書いて投稿した。

 しかし、一度だけ問い合わせがきたが、「投稿スペースがない」と素っ気ない回答だったという。櫻井氏は同紙と朝日を念頭に、「自らの嘘や事実誤認に被りする恥知らずのメディアが、洋の東西で跋扈していることを心に刻みたい」と結んだ(国家基本問題研究所「今週の直言」)。

 それでも、今回の朝日による誤報「取り消し」は、戦後日本を主導してきた自虐思想の岩盤の一角を崩した。世論をリードする朝日の記事が虚構であったという事実は、内外で流布された「歴史認識」の見直しが必要であることを示している。そのための手立ては朝日が責任をもって、海外向けに外国語で発信をすることなのではないか。

 一面記事の「慰安婦問題の本質 直視を」だけでも、見出しに「取り消し」を織り込んだ英訳記事を、ウェブサイトか国際版で配信すべきであろう。

 大いなる誤解はすでに、一九九六年に国連人権委員会に提出されたクマラスワミ報告が、慰安婦を「軍隊性奴隷」と定義したことで起きている。この報告書は日本軍が女子挺身隊として奴隷狩りのような強制的、暴力的な連行を行ったと決めつけている。 

 その根拠には、朝日が今回、虚偽として取り消した吉田清治氏の発言とそれに基づいて書かれたジョージ・ヒックス氏の著書『性の奴隷 従軍慰安婦』などから引用されている。

 朝日が英文で「取り消し」を発信するのか否か。あるいは、最低限の訂正だけで「速戦即決」して台風が通り過ぎるのを待つ構えなのか。あるいは、「朝日新聞の問題意識はいまも変わっていない」などと曖昧にして、今後も逃げ続けるのだろうか。