清原初公判の報道を見ていて、違和感を覚えた。
 検察も弁護側もメディアも、一丸となって美談を形成し、この事件をある方向に着地させたい意図が一致しているように感じた。

 それが清原和博という、高校野球、プロ野球を通じて多くの人々に驚きと喜び、そして興奮を提供してくれた野球選手に対するみんなの思い、更生を願う気持ちだと思えば、社会の温かさを感じないでもない。

 だが、美談のからくりで語られすぎて、本当に清原がもう一度心に火を点けて、常人には想像も及ばない清原和博というとてつもないエネルギーを回転させる未来が見えてこない。メディアも含めた周囲がみな、清原を
 いまは上から見ていて、自分たちが常識的に持っている「良識」という枠にはめ込んで「更生」させようとしている。覚醒剤には二度と手を出してはならない、これは厳然とした事実。その先、清原和博が何を成していくのか? 覚醒剤経験者の覚醒剤との訣別が難しい以上に、清原ほどの野球界での成功者がその後を生きる、新たなやりがいや役割を見つける難しさと相まって、相当に高いハードルが行く手に立ちはだかっている。これをどう乗り越えるか、誰がサポートし、どう清原が挑戦していけるかの発想が欠落している。清原の更生を期待すると言いながら、ただ普通の大人に戻ってほしいというような論調、社会の空気に違和感を覚えるのだ。清原は、普通の枠におさまるような人間ではない。だから、美談が白々しく思えるのだ。



 清原に何をやってもらいたいのか? 清原にはまだ発揮せず埋蔵している才能がある。それを発掘し、開花させる未来こそ、清原のこれからのやりがいであり、人生の道だ。

少年野球教室でオリックスに移籍した清原和博(左)と談笑する野球評論家の佐々木主浩 =兵庫・神戸市のスカイマークスタジアム(撮影・江角和宏)
少年野球教室でオリックスに移籍した清原和博(左)と談笑する野球評論家の佐々木主浩 =兵庫・神戸市のスカイマークスタジアム(撮影・江角和宏)
 スポーツ選手は、ある年齢を迎え現役を引退したら「終わり」だとすれば、第二、第三の清原は量産される恐れがあるし、子どもにやらせない方がいい分野になる。なぜなら、プロ野球に入れる割合もごくわずかだし、そのプロ野球で成功し、スーパースターと呼ばれる存在になった人でさえ、引退したらその後のやりがいが見えない。そんな空しい山に登るのは愚かだろう。いくらその道程が華やかで、通常の大人より高収入でも、山を登り、引退する歳には心身ともに疲弊し、高収入も高支出によって消費している。それが現実。現役時代ほど華やかでないにせよ、スポーツには「極める」という別の次元があり、天才と呼ばれ、プロ野球で活躍した選手でなければ到達できない領域がある。それをさらに高め、野球という分野を越えて、普遍化し、指導できる道だって本来はあるはずだ。いまはそのような方向に野球が向いていない。結果ばかりに執着し、それゆえ、心身の大切な本質を見失う。その象徴的な存在が清原和博といってもよいのではないか。

 それは清原個人の弱さや欠落ゆえの問題ではない。野球界、スポーツ界が持つ構造的な誤りを直視せず、それを曖昧にごまかして、スポーツという産業を維持しようとする、自衛的な発想も無意識に流れている気がする。私たちはこの機会に、清原を徹底的に悪人に仕立てるのでなく、私たち自身も日常的に深く関わっているスポーツ、そしてスポーツ産業のからくり全体に深く斬り込み、スポーツの意義、スポーツの功罪、スポーツの本来の取り組み方を社会全体で真剣に構築し直す必要がある。その意識が今回の初公判とその報道には欠けている。

 引退後、心の隙間を埋める方法がなくなったという。言い換えれば、野球をやっている間は、野球で隙間を埋め、心身のバランスを保つことができたと受け取れる。果たして、そうだったろうか?