西田亮介(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)

 日本社会における「報道の自由」のあり方についての古典的な対立が激しく再燃している。

 幾つかの象徴的なインシデントがあった。たとえば、今年の4月19日には、国連特別報告者のデイビッド・ケイが日本の報道の自由に対する政治的抑圧を指摘し、1985年に設立された、報道の自由を擁護、評価している世界的なNGO「国境なき記者団」の「世界報道自由度ランキング」の2016年版において、日本は過去最低の72位という順位を記録した。

 これらを受けて左派は、現行政権の報道の自由への介入を声高に、強い口調で非難し、保守派は報告者の人物像と基準の偏り、また左派メディアの過去のさまざまな同種の瑕疵をもとに冷笑する…。

 すでに、この対立の構図それ自体を見飽きた気さえしてくるが、大半の生活者はあまり気にしていないか、なんとなくどのメディアに対しても「なんとなく偏っているのではないか」などと漠然とした不信感を抱いている。実態はともかくとして、日本の「報道の自由」に対する閉塞感、不信感については否定できないだろう。

 もちろん、両者の言い分には、それぞれ一定の耳を傾けるべき理由があり、また説得力があるが、本稿では、こうした対立の構図を支えるジャーナリズムの課題に目を向けてみることにしたい。

 政治とメディアの冗長的な「慣れ親しみ」の関係をもとに形成された「規範のジャーナリズム」が機能不全を起こしているが、その変革に失敗していることである。ここでいう政治とメディアの「慣れ親しみの関係」とは、政治とメディアが、生活者よりも密な関係を形成することである。詳しくは拙著『メディアと自民党』(角川新書)などを見て欲しいが、日本の政治とメディアは、歴史的な発展過程のなかで緊密な関係を形成してきた。そのあり様のことを指している。ネガティブな側面が指摘されることが多いが、後述するように、受け手とメディアのあいだで十分に価値観の共有がなされていた時代には、ポジティブに機能することもあったというのが筆者の認識だ。

 「規範のジャーナリズム」とは、このような政治とメディアの関係を踏まえて、大所高所から政治や社会のあり様について、特定の価値観のもとに政治や生活者がどうあるべきかという指針を提示する、やや図式的にいえば「速報、取材、告発」を重視するジャーナリズムのかたちである。