ジュリアン・ライオール(デーリー・テレグラフ特派員)

1945年8月6日に広島に落とされた原子爆弾によって亡くなった犠牲者の中には、12人の米兵捕虜も含まれていた。アマチュア歴史家の森重昭さんは、40年以上を費やし、被爆米兵の遺族を探し当てた。アメリカのバリー・フレシェット監督が、その記録を『灯篭流し(Paper Lanterns)』にまとめた。

 40年もの間、森重昭さんは、広島で原子爆弾の犠牲になった14万人余りの人々に含まれていた被爆米兵捕虜12人の記録の断片を紡ぎ合わせてきた。政府機関のおざなりな対応や、声をひそめたような批判にもかかわらずだ。
左から、森佳代子夫人、バリー・フレシェット監督、森重昭さん
左から、森佳代子夫人、バリー・フレシェット監督、森重昭さん
 今年79歳になる森さんは、彼自身も被爆者だ。労を惜しまずに積み重ねてきた彼の偉業は、図らずも被爆米兵ノーマン・ブリセットの親友が自分の大叔父だという米国人映画監督の目に留まるまでは、ほとんど知られることはなかった。

 「この真実を突き止める活動の軌跡は、人の心を動かさずにはいられないことは分かっていました」とバリー・フレシェット監督は言う。しかし、この映画が、かかわる人々の人生を根こそぎ変えることになるとはゆめゆめ思わなかった。

 「森さんは、40年の歳月をかけて被爆米兵の謎を読み解いてきました。史実を大切にする彼にとっては、些細な細部の歴史的な発見が大変重要だったのです」と監督は語った。「12人の飛行士に敬意を表し、人々の記憶にとどめ、遺族に何が起こったかを伝えたかった。彼はそれをやり遂げたのです」

撃墜された米兵たち―その運命


 2人が出遭う運命は、フレシェット監督が生まれるずっと前、陸軍B24爆撃機―ロンサム・レディー号とタロア号―さらに2機の海軍戦闘機が、1945年7月末に日本の巡洋艦を爆撃中に撃ち落とされた時から、既に始まっていた。

 撃墜された爆撃機の乗組員全員が生き残ったわけではないが、パラシュートで助かった13人は、至近都市である広島の中国憲兵隊司令部に護送された。その後、トーマス・カートライト中尉は、尋問のために東京に送られた。この運命のいたずらがカートライト中尉の命を救うことになる。

 1945年8月6日の朝8時15分に原爆が広島の空でさく裂したとき、米兵捕虜が拘留されていた憲兵隊司令部は、爆心地から400メートルも離れていなかった。

 9人の米兵捕虜は、即死だったと言われている。シアトルのヒュー・アトキンソン軍曹だけは、奇跡的に原爆のさく裂の中生き残ったことが認められているが、翌日には放射線障害で亡くなったらしい。一方、ラルフ・ニール軍曹とノーマン・ブリセット三等兵曹の2人は、原爆が600メートル上空で炸裂する少し前に、尋問のため少し離れた市内の宇品(うじな)に連れて行かれた。とはいえ、2人も原爆の影響を免れることはできなかった。日本人の医者による手当てと治療の甲斐もなく、13日後に放射線障害により亡くなり、宇品憲兵隊員の手で埋葬された。

 3日後、8月9日には、2つ目の原爆が長崎に落とされ、日本はついに8月15日に降伏した。