小林信也(作家、スポーツライター)



 日韓共催となった2002年のW杯サッカー招致決定の日を覚えているだろうか? それは1996年の6月1日だった。
 
 あのとき事前の報道では「日本有利」「日本開催は決定的」との空気が濃厚だった。1993年にJリーグが誕生し、空前のサッカー・ブームを巻き起こし、W杯サッカーへの注目と熱狂も俄然盛り上がる中で、「日本開催」は日本中の願いのようになっていた。前年に、立候補予定だったメキシコが辞退し、「日本に先を越されてはならない」とばかり名乗りを上げた韓国と日本との一騎討ちとなっていた。

 ところが、決定直前になって、意外な情報が伝えられた。私もちょうどTBSラジオのニュースワイド番組に出演するため、TBSのスタジオにいた。もたらされた情報は、「どうやら日韓共催に決まりそうだ」という、思いがけない展開だった。「日韓共催」のアイデアは一部にあるにはあったが、ほとんどのメディアが真剣に取り上げていなかったし、日本人の大半が選択肢として認識していなかった。FIFAの理事会で決定されるのは、「日本か、韓国か」であって、まさか「共催」とは誰もが予想しなかった。
日韓共催で行われた2002年のサッカーW杯開会式
日韓共催で行われた2002年のサッカーW杯開会式
 当時のアヴェランジェ会長が一貫して日本開催を支持していた事実もあって、日本が有利に招致活動を展開していたのは間違いない。問題は、韓国による巻き返しだった。要約すれば、「日本対韓国」の図式では勝ち目がないと悟った韓国はしきりに政治的な動きとロビー活動を展開。アヴェランジェ会長との派閥争いが激化していたUEFA(欧州サッカー連盟)のヨハンソン会長(FIFA副会長当時)と欧州の理事たちを懐柔し、「日韓共催」の票を着実に積み重ねた。

 決定前日になって自分の立場(日本開催支持)が危うくなったと察したアヴェランジェ会長が、理事会で自ら「日韓共催を提案し、満場一致で決まる」という、日本にとっては青天の霹靂ともいえる出来事が起こった。

 それまでの日本の関係者たちは、ロビー活動などの裏の動きにはさほど熱心ではなく、「アヴェランジェ会長が日本を支持しているから大丈夫」と楽観していた。世界のスポーツ界はそんなのんびりした了解では動かないと日本が体験した大きな分岐点となった。