三浦瑠麗(国際政治学者)


 アベノミクスとは、金融政策と財政政策と構造改革のセットであるはずなので、本来であれば、個別の政策ごとに評価をすべきところでしょう。本稿の立場は、アベノミクスのうちの金融政策はデフレ脱却に向けて評価できるが、その後に来るべき構造改革案件が存在しないことが問題、というものです。期待が先行していた第三の矢については、そもそもやる気がないのではないかとの認識に到達しつつあります。そのことについては、これまでも申し上げてきたとおりです。

 しかし、最近思うのは、このような個別の政策分野を取り出して論じる方法にはあまり意味がないのではないかということです。
 日本政治において経済問題を評価する枠組みがそもそもそのような発想に基づいていないから、という感覚です。有権者は個別の政策を評価するのではなく、あくまで「経済運営」の全体を評価しているのではないか。消費増税の有無や、予算の無駄使いというように、より注目される政策分野は存在しても、ものを言うのはあくまで経済運営の全体性であると。

 ということで、本稿の目的は個別の論点に入る前段階の、経済運営の骨子やその発想そのものを取り上げ、評価することとしたいと思います。

 骨太の経済政策を語れない日本政治


 経済政策の全体像について考えるという立場を取る際には、日本政治における経済政策のリテラシーの低さを指摘しないわけにはいきません。
 これは、各国の政治を比較して見ていれば明らかな日本政治の際立った特徴です。経済政策についての論争は、あっという間にその時々の細目の論点に矮小化されてしまいます。個別の政策が論じられる場合でも、政策の拠って立つ思想や前提ではなく、しばしば特定の組織との距離感を軸に議論が展開されるのです。
内閣不信任決議案が否決された衆院本会議=5月31日午後、国会(斎藤良雄撮影)
内閣不信任決議案が否決された衆院本会議=5月31日午後、国会(斎藤良雄撮影)
 典型的な例が、財務省との距離感をめぐる言説です。
 旧大蔵省、現財務省が日本政治の中で特別な地位を与えられてきたことは事実です。財務省は、行政に大幅な裁量が残された日本政治における最エリートの集団として、財政規律という価値観を軸に国家の経営にあたってきました。強固な自律性と団体性をもち、徴税権力という執行権力までを傘下に持つ組織として、組織的なロビーイングを行ってきた唯一の存在と言っていいでしょう。
 ただ、その存在感が大きいからと言って、経済論争の構造を一組織との距離感で読み解くのは政治を語るものの怠慢ではないかと思うのです。

 そもそも、日本政治において経済政策をめぐる骨太の議論が成立しない背景には日本がたどってきた歴史があります。冷戦の初期には、共産主義の経済運営に一定の魅力が存在しました。日本を含む先進各国の保守政権は、統治の至上命題に赤化防止を置き、社会主義的な要素を次々と取り込んでいきました。そして、保守政党の経済分野での左傾化に最も成功したのが自民党です。
 自民党の「大きな政府」路線は、「お上」からの恩恵を期待する国民意識にも、予算増大を領土拡張的に捉える官僚組織の本能とも一致し、安定した日本の政治・社会モデルとなったのでした。

 ただ、安定の対価は知的停滞でした。
 政治家や官僚から情報をもらってくる存在であるメディアは、政権が設定する論点をそのまま受け入れることがほとんどでした。調査報道とは、政権の失態やスキャンダルを暴くことを言うのであって、政権が拠って立つ論理構成や事実認識に挑戦するのは自分達の仕事ではないと言っているかのようでした。経済政策についての根本的な路線選択を迫る発想は、かろうじて日経新聞において存在するくらいでしょうか。

 現在でも、リベラル寄りとされる新聞が緊縮路線であったり、保守的とされる新聞が市場重視の改革に敵対的であったりと、かなりの混乱が見られます。数字に基づく全体像の議論はあまりなく、どうしても経緯論に偏りがちになってしまう。