恵知仁(「乗りものニュース」編集長)

 今年2016年4月、茨城・栃木県内を走る真岡鐵道沿線に咲く菜の花が、「撮り鉄」によって踏みつけられたことが大きな話題になった。しかし、30年近くの「撮り鉄」経験がある筆者にとって、この話題に対する印象は“世間”での盛り上がりに対しひどく冷静なものだった。意外性も不思議もなにもない、十分に想定内の出来事だったからだ。

多くのファンらに見送られ、上野駅を発つ臨時寝台特急「北斗星」
=2015年8月21日、東京・JR上野駅 (奈須稔撮影)
多くのファンらに見送られ、上野駅を発つ臨時寝台特急「北斗星」 =2015年8月21日、東京・JR上野駅 (奈須稔撮影)
 「撮り鉄」による鉄道敷地内への不法侵入、線路脇の“撮影地”に残されるゴミ、珍しい列車を撮ろうと人が殺到し飛び交う罵声。これまで幾度、見てきただろうか。

 しかし、だからといって無関心、諦観しているわけではない。長年のあいだ同じ趣味を持つ人間として、いわゆる「撮り鉄問題」に対し危機感を抱くのはいまに始まったことではなく、すでに自身の心になかに強くあるもの。こう書くのも残念だが、特段いまさら、衝撃を持って受け止めるものではないだけだ。



 これは逆にいえば、「撮り鉄問題」はそれだけ長期にわたって存在しているということである。なぜそれは解決せず、しばしば“世間”を騒がせつづけるのだろうか。

 まず、明確にしておきたいことがある。これを「撮り鉄」という枠のなかで語り、「撮り鉄の問題」としてしまうのは必ずしも正しくないということだ。

 過剰な場所取りやゴミが問題になるお花見、コース外へ逸脱するスキーヤー、渋滞時に路側帯を走っていくドライバー。場所や目的などが違うだけで、そうした行動をする心理は「撮り鉄」と同じである。

 廃止される列車などに集まる「葬式鉄」もそうだ。たとえば、日々の通学に使っていた路線が廃止されるとき、その最終日に現地へ向かい別れを惜しむ感情に対し、疑問を抱く人は少ないだろう。しかしそうしたことがなくとも、「廃止」、すなわち貴重だとか、「もう見られない」といった限定感に価値を見いだす人もいる。「貴重」や「限定感」に価値を見いだすのは、「撮り鉄」だけではない。

 また、ホームの端に撮り鉄が集結しているときは大抵、珍しい列車がやって来るときだ。こうした「貴重」であったり「レア」な列車を撮る(写真として自分のものにする)と、メディアに掲載されることがあるほか、SNSにアップした際の反応も良く、簡単にいえば「自慢」ができる。これも「撮り鉄」特有の心理ではない。鉄道に関心がない人から見ればその何が良いのか分からないだろうが、「興味がない人から見れば価値がないもの」など世界には溢れている。