マッカーサーのコーンパイプ


 葉巻とかパイプとか、ぼくも一時やったことはあるけれど、いちいち手間がかかるものですね。あれは、食事のあとで、男たちだけでゆったりくゆらしながら大人の会話を楽しむ、そういう非常に高尚な嗜好品の一つなんだな。

 江戸時代の人間は、煙草入れを粋に帯に差して、煙管や煙草盆だけでなく、根付のようなものにまで凝って、美術品の域にまで高めた。喫煙という趣味の世界が文化になっているんです。

 そこまで手間暇かけて、凝りに凝ってタバコを吸うということは、喫煙という習慣に何かしら人の心を引きつけるものがあるからだと思うな。何かと言えばタバコは体に悪いというけれど、ニコチンが体に及ぼすプラスの効果だってたぶんあるはずですよ。

 荒野を旅するカウボーイが、小さな宿場町に着いて、馬の蹄鉄を替え、水と餌を与えておいて、自分はバーで一杯キューッとひっかけて煙草を吸う。長旅をしてきた男にとって、いかにも至福のひとときという感じがします。

喫煙所はコミュニケーションの場。居合わせた若い女性に火を借りる
喫煙所はコミュニケーションの場。居合わせた若い女性に火を借りる
 表現の自由があるんだから、嗜好品の自由だってあっていいはずでしょう。その人の幸福を追求する権利といってもいい。何か一仕事したあと、たとえば原稿を書き終わったあとの一服がなんとも言えないという人の喜びを法律で奪ってしまうというのは、もはや恐怖政治ですよ。

 すごく印象的だったのは、日本が負けて、マッカーサーが厚木に降り立ったシーンです。あのとき彼はコーンパイプをくわえていた。あのパイプが、日本の敗戦を象徴しているような気がしました。タバコと分かちがたく結びついている、記憶に残る場面もあるわけです。そういう歴史とも深いかかわりを持っている嗜好品を禁止することに、果たしてどんな意味があるのか。何のために止めさせようとするのか非常に疑問を感じますね。

善良な喫煙者たち


 ぼくは東京育ちだから、1960年代、70年代の排気ガスやスモッグの大気汚染のなかで生きてきたわけです。タバコより自動車の排ガスのほうがよっぽど体に悪いんじゃないか。東京に住んでいる人間は、タバコを吸わなくたって、街の空気を吸っているだけで少なくとも田舎の人たちよりはるかに大きなハンデを背負っているはずです。だけど、そんなことはまったく問題にしないで、タバコの煙だけが他人に迷惑をかけていると非難される。

 人類が宇宙ステーションをつくる時代に、たかがタバコごときでここまで非難される理由が知りたい。喫煙者は非喫煙者に対して本当に毎日迷惑をかけているのか。東京都の空気を汚し、日本全土を汚し、アジアを汚し、地球を汚しているのか。

 ボロボロになった肺の写真をパッケージに印刷している外国タバコなんかがあるでしょう。吸っていると、おまえの肺もこうなるぞという脅しだよね。気持ちが悪くて食欲もなくなる。でも、不思議なのは、タバコを吸わなくたって肺ガンになる人が増えているってことです。タバコが害になることが医学的にも社会的にも論理的にはっきり証明されたのならともかく、ほとんど感情論なんだよね。なんであれほどタバコだけを目の敵にするのか不思議でしかたがない。いつからこんな風潮が生まれたのかなあ。嗜好品を嗜む権利はあるが、他人に対してそれをダメだという権利はないと思うんだよ。

 でも、喫煙者はそれを主張しないで、「わかったよ、嫌いなんだろタバコが。あなたたちのいないところで吸うよ」とジッと耐えている。そういう非常に善良な人たちによって喫煙文化というものが守られているんですね。