ここに紹介するのは安田純平さんが本誌2003年8月号に書いた手記の一部だ。安田さんは、信濃毎日新聞社に入社して記者として仕事をしていたが、イラク戦争を現場で取材したいという希望を拒否されたために、会社を辞めて戦場に足を運んだ。その時の経緯を書いたのがこの手記だ。

 今回、戦場で消息を絶ったことともそれは関わっているのだが、なぜ彼はそこまでして戦場に行きたいと考えたのか。また新聞社という組織ジャーナリズムとフリーランスの記者との違いは何なのか。そうしたことをマスコミをめざす若い人たちにぜひ考えてほしい。それは同時に安田さんの今回の問題を考えることにもなる。

 ちょうど1年前、本誌の「後藤健二さんの死を悼み、戦争と報道について考える」というシンポジウム(2015年4月号に収録)で安田さんは、戦場取材の意味や危険性について語っていた。本誌は安田さんが一刻も早く無事に帰還することを祈るとともに、今回の事件を通して改めて、ジャーナリストが戦場に行くことの意味を考えてみたいと思う。そのためにかつての安田さんの手記を、編集部の判断で再録することにした。
フリージャーナリストの安田純平さん(右)=2003年3月、バグダッド
フリージャーナリストの安田純平さん(右)=2003年3月、バグダッド
安田純平(ジャーナリスト)

なぜ信濃毎日新聞社を辞めたのか


 「イラクの戦争など長野県と関係ない。取り上げる必要もない。そうした取材はもういっさいさせない。休みで海外に行って記事を書く記者が多いが、今後は書かせない方針を決めた」

 2003年1月初め、ある編集幹部に「社としての方針」としてこう聞かされ、「もう辞めるしかないか」と心が動いた。

 私は2002年12月、先延ばしにしていた夏休みを使って約10日間、イラクを訪れていた。市民グループ「イラク国際市民調査団」に参加し、バグダッドや南部のバスラをまわり、91年の湾岸戦争以降も米軍が続けてきた空爆の被害者や、劣化ウラン弾の影響とみられるがん患者を取材。活気のある街の風景や、貧しいながらも元気よく生きるイラク人の表情、米国のイラク攻撃に反対する日本の若者の活動をカメラに収めた。帰国後、これについての記事を書こうとした矢先、強硬なストップがかかったのだ。

 米英両国が国連安全保障理事会に提出したイラク大量破壊兵器査察・廃棄決議案が11月初めに採択され、すでに査察が始まっていたが、このころの新聞やテレビは、いずれも査察の状況や各国の外交について述べるばかり。戦争が迫っている国の人々の表情などは、ほとんど見えてこない状態だった。

 大手メディアもイラクに入国できる人数が限られ、「本筋」の査察取材で手一杯。調査団は、参加者20人余のうち半数は全国紙やテレビ局などメディア関係者という奇妙な市民グループだったが、それは、なかなか見えてこないイラク市民の様子を伝える格好のチャンスだったからだ。