茂木健一郎(脳科学者)


 舛添要一さんが、都知事をお辞めになった。
 週刊文春の報道から始まったこの騒動から、私たちは何を得たのだろうか?
 日本は、何を学んだのだろうか?
 どうも、すべてが空虚であったように思えてならない。

 もちろん、伝えられる舛添さんの行動は、決して、肯定されるべきものではない。「せこい」という言葉が、ニューヨーク・タイムズ紙にまで報じられた。「せこい」と糾弾されたこれまでの行動、そしてその背後にあるものの考えについては、舛添さんご本人も、大いに反省されていることだろう。

 しかし、そのことと、舛添さんの問題の報道価値は、また、別問題である。

 世の中には、「色物」という言葉がある。もともと、寄席で、講談や落語の間に演じられる漫才や、奇術などの演芸を、色文字で書いたことから、この言葉が生まれた。転じて、ある分野で、中心的、主要なもの以外のことを、「色物」と呼ぶようになった。

 もちろん、色物には、価値がない、というわけではない。ただ、分野、ジャンルが違うというだけのことである。色物には色物の誇りがある。役割が違うのだ。

 一方、落語には、「本寸法」という言葉があって、本格的なもの、背筋がぴんと伸びるような、お手本となるものを指す。色物と本寸法は別ものなのであって、お互い、その違いがわかっているからこそ、どちらも生きてくる。本寸法あってこその色物であり、色物あってこその本寸法なのである。

 さて、舛添さんについての報道である。

 回転寿司がどうしたとか、お正月にホテルに宿泊したとか、あるいは、美術品をオークションで落札したとかいった話題は、確かに面白い。特に、これらのエピソードが、舛添さんという人物の一面を伝えるように感じられるからこそ、人々の興味を惹く。マクドナルドを奢る際に、わざわざ割引券をとりに行かせたという話も、確かに面白い。
不信任決議案が提出され、報道陣の問い掛けに無言で引き揚げる舛添要一都知事(中央)=6月14日、都庁
不信任決議案が提出され、報道陣の問い掛けに無言で引き揚げる舛添要一都知事(中央)=6月14日、都庁
 その一方で、このような報道は、政治を考える上では、所詮、「色物」にすぎないということも、どこかでわかっていなければならないと思う。色物は、人々の関心を惹く。色物は、視聴率を上げる。しかし、だからと言って、これらのことが、都政を考える上で、本質なのではない。

 舛添さんが就任されてからの、都政における仕事ぶりは、どうだったのか? 外国出張が高額だと話題にされていたが、果たして、これらの「外交」は、成果が上がっていたのか? それらの検証をすることが、「本寸法」の報道だと言えるだろう。

 また、そもそも、今回の一連の報道の情報をリークしたのは誰か? もし、舛添さんの辞任を望む人たちがいたのだとすれば、その人たちは誰で、その動機は何だったのか? そのような構造を明らかにすることも、「本寸法」の報道だったろう。

 メディアにも、商業的な側面がある。新聞社だって、テレビ局だって、食っていかなければならない。従って、たとえ「色物」だとわかっていても、いわば「にぎやかし」としてそれらの話題を取り上げること自体が、悪いとまでは言えないだろう。

 その一方で、「本寸法」の精神を忘れてしまっては、職業人として悲しい。何よりも、ジャーナリズムの名が、恥ずかしい。さらに、ヘタをすれば、国の方向を誤る。舛添さんの一連の騒動で、現場の記者たちに、そのような矜持は、どれくらいあったのだろうか。

 連想されるのが、米大統領選挙をめぐる、アメリカ国内のメディア状況である。
 不動産王トランプさんは、確かに注目を集めやすい人である。メキシコとの国境に壁をつくって、その費用はメキシコに負担させるとか、イスラム教徒は入国させないとか、実現の可能性が怪しい、派手な花火を打ち上げる。