仲野博文(ジャーナリスト)



第五回【グループリーグ Match32 クロアチア対スペイン】


 

ユーゴ紛争に泣いた92年大会と
強烈なインパクトを残した96年大会


 EUからの離脱を問う国民投票がイギリスで23日に実施されるが、25年前の同じ時期に、それまでユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する国の1つであったクロアチアでユーゴスラビアからの離脱の是非を問う国民投票が行われた。ユーゴスラビア内には6つの共和国と2つの自治州が存在したが、ソ連と比べて構成国の自治権が強く、住民投票の行われる何年も前からクロアチアでは本格的な独立を求める声が日増しに強まっていた。

 300万人以上が実際に参加した住民投票では、ユーゴスラビアから離脱して独立を求める声が約93パーセントに達し、独立派の圧勝に終わった。この結果を受けて、クロアチアは1991年6月25日にユーゴスラビアからの分離と独立を一方的に宣言する。クロアチアとオーストリアに挟まれた人口200万のスロベニアも、同じ日に独立を宣言した。一方的な独立宣言に憤慨したユーゴスラビアは、セルビア人が主体のユーゴスラビア人民軍を使って独立を阻止しようとし、独立から数日後にはスロベニアとクロアチアで本格的な武力衝突が発生した。

 スロベニアとユーゴ人民軍との戦闘はわずか10日間で終了したが、セルビアに隣接し、国内で暮らすセルビア系住民が少なくなかったクロアチアではさらに戦闘が激化し、クロアチア紛争は1995年まで続いた。「政治とスポーツは別」という言葉がしょせん綺麗事でしかないことを実際に証明したのが、クロアチアを含む旧ユーゴ諸国だ。

 1992年の欧州選手権は北欧のスウェーデンで開催された。1990年5月から1991年12月にかけて行われた予選は7つのグループに分けられ、各グループの首位チームが本大会出場権を獲得。ホスト国のスウェーデンを加えた8カ国で大会は行われた。イビチャ・オシムの采配によって90年のワールドカップ・イタリア大会で好成績を残したユーゴスラビアは、その勢いを落とすことなく7勝1分けという成績で予選リーグを制し、欧州選手権出場を決めた。

 クロアチアやスロベニアが独立宣言を行う直前まで、代表チームにはクロアチア人選手やスロベニア人選手がおり、7-0で大勝した1991年5月16日の対フェロー諸島戦では、ズヴォ二ミール・ボバンやダボル・シューケルら4人のクロアチア人選手もゴールを決めている。しかし、この試合を境にセルビア人とモンテネグロ人以外の選手はユーゴスラビア代表を辞退するようになり、1992年5月22日には故郷のサラエボがユーゴ人民軍に包囲されていたオシム監督も辞任を表明。

 監督まで去るという非常事態の中で、ユーゴスラビア代表は5月28日に開催地のスウェーデンに向かうが、30日に内戦の激化を危惧する国連安全保障理事会が対ユーゴスラビア制裁の決議を採択。スポーツを含むユーゴスラビアの全ての国際交流活動が禁止された。ユーゴスラビア代表チームは開催地のスウェーデンで大会に出場できなくなったことを知らされ、予選で2位だったデンマークが代替出場した(皮肉にも、そのデンマークがドイツを破って優勝している)。国際政治にアスリートが翻弄される悪しき例となってしまった。

 その4年後、クロアチアは独立国として、1996年の欧州選手権に初めて出場する。グループリーグではポルトガルに敗れはしたものの、初戦のトルコ戦と2戦目のデンマーク戦に勝利し、決勝トーナメントに進出。3-0で勝利したデンマーク戦では、後半に各選手が個人技で格の違いを見せつけ、試合終了間際にエースストライカーのシューケルが放ったループシュートがデンマークの守護神シュマイケルの頭上を越えた瞬間、シュマイケルがピッチに膝を落としたシーンはクロアチアの攻撃力を象徴するものであった。クロアチアは準々決勝でドイツに敗れるが、世界中のフットボールファンにその力を見せつけた。