小川榮太郞(文藝評論家)

 吉永小百合さん、この一文を手紙形式でしたためたのは、貴女に実際に読んで頂きたいからです。

 私はこの小文後半で、貴女の政治的な言動を批判する事になりますが、単に紋切型の、また、批判の為の批判をするつもりはありません。

 私は心から平和を愛してをり、その為の道を真剣に模索してきましたし、一方、女優としての貴女を大変高く評価してゐます。だからこそ、私は貴女にお伝へしたい事がある、これはさういふ一文だと御承知ください。

日本女優史に残る女優たらしめているもの


 私は吉永小百合さんの「声」が好きです。

 吉永さんは「目」の女優だといふのがいはば定評なのだらうと思ひます。勿論、私も、貴女の眼差しの、豊かな表現力と魅力はよく知つてゐます。

 が、貴女の女優としての本質を最も深いところで支へてゐるのは、やはりその声なのではないか。

 決して透明ではなく、くぐもつた、しかし非常に暖かい声。淑やかさと天真爛漫さが瞬時に入れ替はる声の運動性の軽やかさ。溢れ出る気品。

 いや、何よりも誠意といふもの、実意といふものを、心底聞き手に信じさせる「声」を、貴女は持つてゐます。

 勿論、貴女はラヂオでのデビュー当初を除けば、基本的に声優ではなく、その姿の魅力、演戯の魅力抜きに「吉永小百合」を語ることはできないでせう。

 とりわけ若き日の貴女の、生命力がそのまま演戯を凌駕してしまふやうな生きたままの姿の魅力!

 私がここに断るまでもなく、貴女が大女優になる決定的な一歩は、昭和三十七年発表『キューポラのある街』での中学三年生の石黒ジュン役でした。

 この映画には、既に、吉永小百合の女優としての本質的な魅力がはつきりと現れてゐます。即ち、女性の持つ両義性、あるいは多義性の表現者としての女優像がそれです。

 透明な綺麗さ一辺倒の女優はゐます。気品の高さで魅了する女優もゐるし、逆にコケティッシュな女優もゐる。天真爛漫だが、陰影のない女優もゐる。表現意欲に溢れた演技派もゐれば、お人形さん的な女優もゐる。

 吉永さんは一般に清純派とされますが、それは社会的なイメージとしての呼称に過ぎません。藝術家としての女優といふ観点から言へば、吉永さんの本質は、静かな落ち着いた佇まひを保持しながらも、多義性を軽やかに移動する「速度」にあると、私は思ふ。佇まひの一貫性の中に多くの人が思つてゐる以上に繊細で多様で迅速な「動き」がある。

 実際、十七歳で中学三年生の主人公を演じた『キューポラ』で、貴女は既に、「成熟した中学生」といふ矛盾を見事に演じてゐます。そしてまた、埼玉県川口といふ鋳物の工場町、キューポラといふ独特の煙突のある泥水と板塀の職工の世界に、一輪の若百合のやうに咲く花を自然な姿で演じて、不思議な程違和感を感じさせません。東野英治郎演じる親父は飲んだくれの気違ひじみた頑固者で、弟は逞し過ぎてヤクザにもなりかねない悪童、家では親子や夫婦の喧嘩が絶えない。

 勿論、戦後の映画界の常で、若干の左翼プロパガンダが巧みに織り込まれた一面もないではありません。労働組合を嫌ふ親父にむかつて浜田光夫演じる若い職工が、「労働組合を赤だなんて物笑ひだぜ」と一笑に付す場面や、事ある毎に散りばめられた「民主主義」のルールを観客に説教するやうな科白は、さすがに今日素直に受け取る訳にはゆきません。
1964年3月、映画「伊豆の踊子」に主演、原作者の川端康成(左)と話す吉永小百合
1964年3月、映画「伊豆の踊子」に主演、原作者の川端康成(左)と話す吉永小百合
 その中で吉永さんはまさに掃き溜めの鶴、ガサツな飲んだくれの娘なのに、何とも筋の通つた美しく強い女の子像、旺盛な生活力のある女の子像を謳ひあげてゐる。それと同時に、家計を支へながら高校進学も諦めない健気な努力が再三父親の我が儘によつて水の泡になることに耐へかねて心荒れ狂ふ姿、さうした時に見せる、子供から大人になり切れぬ処女性もよく演じられてゐる。それらが、天性の自然さで、しかし充分に練られた演技になつてゐることに、大器を感じないわけにはゆきません。

 これは翌年の『伊豆の踊子』においても同じです。歴代の映画版『伊豆の踊子』の中でも、おそらく最も川端康成の心に適つた踊子像だつたと言つていいでせう。