稲増龍夫(法政大学社会学部教授)

 吉永小百合は1945年3月に生まれ、日本はその5カ月後に終戦を迎えた。まさに日本の戦後とともに歩んできた映画女優だといえる。60歳を越えながら、いまだに若々しいイメージを保ち、2年に1本のペースで主演を演じ続けるバリバリの現役女優である。

 今までに100作を越える映画に出演し、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を4回受賞している(歴代1位)。現在でも、幅広い世代から支持され、2010年には「文化功労者」に選ばれるなど、名実ともに、わが国における戦後最大の女性映画スターである。

スターとアイドル


 ちなみに、彼女は「スター」と呼ばれてきたが、わが国では、今は「アイドル」が全盛である。この2つの呼称は、主たる活躍の場(メディア)で分けられ、簡単に言えば、スターは映画、アイドルはテレビである。
スターは、全盛期のハリウッドの「スターシステム」に象徴されるように、映画という非日常的空間で勇猛果敢なヒーローや見目麗しき美女を演ずる存在であり、そのカリスマ性を維持するために、できる限り日常生活を隠して「神秘性」を高める必要があった。だから、ハリウッドの映画スターはパパラッチに狙われるのである。

映画「動乱」の完成試写会で挨拶する高倉健さん(左)と吉永小百合=1979年12月
映画「動乱」の完成試写会で挨拶する高倉健さん(左)と
吉永小百合=1979年12月
 一方、アイドルは特にわが国で発達した文化表象現象で、圧倒的美男美女よりも、隣のクラスのカッコいい子や可愛い子といった手の届く「親しみやすさ」が必要で、テレビでは、単にドラマで演じたり音楽番組で歌ったりするだけではなく、トーク番組やバラエティー番組に出演し素顔をさらすことがかえって好感度を高めることになる。

 吉永小百合の場合は、活動の中心が映画である上に、テレビドラマでさえ文芸ドラマや大作ドラマが多く、それ以外のテレビ出演は少なかった。もちろん、彼女が映画デビューした頃は、まだテレビが普及していなかったので当然かもしれないが、それにしても、映画産業が衰退し、多くの映画スターがテレビに活躍の場を求めたことを考えあわせると、映画にこだわったスタンスが、結果として「神話性」を保たせたのかもしれない。

 さて、吉永小百合は、1945年に東京で生まれ、まさに戦後の日本社会の復興と映画の発展とを体現する形で成長していった。

 実際、わが国において映画は戦後に爆発的に普及し、大衆娯楽の中心に躍り出たのは1950年代後半から60年代初頭であった。この頃、観客動員数はほぼ毎年10億人と、当時の人口から考えて国民1人当たり年に10回以上は映画館に通っていたことになる。

 ちなみに、1960年代半ばから、テレビに大衆娯楽の主役を奪われるようになって映画産業の凋落(ちょうらく)が始まり、近年の観客動員数は1億数千万人程度(2011年は約1億4400万人)という状況である。
吉永小百合は、その絶頂期の1959年に、わずか14歳でスクリーンデビューを果たしている。彼女は子役時代にラジオドラマに出ていたこともあり、芸能界でのキャリアはあったが、それにしても早いデビューで、しかも、1960年から61年にかけて20本以上の作品に出演しており、映画全盛期とはいえ、過酷なまでの「勤労高校生」であった。

 初主演は1960年秋の『ガラスの中の少女』で、ここで、後に「純愛路線」を築く浜田光夫とのコンビが実現する。ともかく、初期の吉永小百合は、どちらかというと「まじめ」な学級委員長タイプを演じることが多く、特に石坂洋次郎原作の青春映画『青い山脈』(1963)などは、彼女のイメージ形成に大きく寄与していた。

 これらの映画に見られる、たとえ貧しくとも、明日を信じてまじめに努力していく前向きな姿勢は、まさに戦後復興から経済成長を支えた日本人のメンタリティーを反映したものであり、吉永小百合の「ひたむきさ」は、当時の若者たちの夢と希望の支えであった。それゆえ彼女の「スター性」は、欧米の女性映画スターと違って「性」的要素が薄く、だからこその「清純」であり、年齢を超越した輝きを放っているのかもしれない。