もう一つ、市の「苦しい事情」がよく理解できるエピソードがある。子宮頸がんワクチンの製造販売企業の1つであるMSDに対し、名古屋市は、抗議文を送っている。MSDは、集団提訴の記者会見のあった3月30日に声明を発表し、名古屋市の調査についてこう触れている。

 「2015年12月には名古屋市が疫学調査を行い、約30,000人の女性から回答がありましたが、この調査では、接種者と非接種者の間で調査対象となった 24 項目の症状について発症頻度に差はなかったという結果が報告されています」

 つまり、被害者の会が訴えるという製薬企業の声明文に、ワクチンの安全性を裏付ける、製薬会社にとって有利な情報として、名古屋市の速報結果が引用されたのだ。この引用に対して市は抗議しているのだが、公表資料の一部を引用することは著作権法上も認められており、市の言い分は不可解だ。

編集部「抗議は文書で行ったんですか」
市「はい」

編「どのような内容ですか」
市「あくまで速報値ですし、それをもってあたかも科学的な根拠が取れたかのような結論なさっているんですが、私どもはそういうことは言っていないんですよと」

編「引用は削除してくれと?」
市「はい。そうお願いしています。最終報告じゃない、速報ですよということ。結果が変わるとは思ってないとは言っているんですけれども、最終報告として出したもんじゃない」

編「最終のあとならよかった?」
市「ま、そこで使われるぶんにはあれかもしれない、ただ、あともうひとつは、引用の仕方ですね。あからさまなエビデンスのひとつとして、『ない』ですよ、という言い方で書かれているので。うちとしては結論の下にきちんと書かせていただいていますけれども、慎重に判断していく部分もあるので、名古屋市として『ない』と言ってるわけじゃないと」か。

 名古屋市の調査結果(速報)の結論の項「今回調査した24項目の症状について、ワクチン接種者に有意に症状のある人が多い項目は無かった」のあとには、確かに次のような文章がある。「※この結果は統計的な分析であり、個々の事例の因果関係については慎重に判断する必要がある」。

編「この※印以下、『個々の事例の因果関係は慎重に判断がいる』まであればよかった?」
市「書いてくれれば、だからといって書いていいというわけではないです……」

編「最終報告まで待って、※があればよい、ということ?」
市「最終報告じゃないし、エビデンスの1つとして結論付けるのは、やめていただきたい、と。私どもとしては、やっぱり、思いはここの思いなんですね。個別には慎重な判断が必要、という」

 編「MSDの引用は、統計として差がなかったという調査もある、と正確に引用している。何がいけないのかわからない。最終報告の後なら引用していいというわけでもない、と……」
市(苦笑)

編「こんな苦しい抗議書、出したい人はいない。出せって誰かに言われてるんですか?」
市(無言)

編「折角、いい調査されたのに、何でそんな苦しい思いをされてるんですか? そういうことには普通ならないですよね。何かよほどの事情でもあるのでしょうか」
市(沈黙)

 ちなみに、市の速報の解析結果について、クレームを文書でいれたのは、薬害オンブズパーソン会議だけとのことである。また、子宮頸がんワクチン接種後症状を検討する厚労科学研究班の成果発表では、遺伝子型の解析の誤りとマウス実験の捏造問題が浮上する結果となっているが(参考記事はこちら)、一般的にはクローズドで行われる班研究の発表が公開となったのも被害者サイドの要望だそうだ。

 以上が、市は市立大学に「疫学的解析」を依頼しながらも、「集計結果」だけを開示するに至った流れである。これを、NHKは6月26日の夜6時のニュースで「事実上撤回」と報じた。

 名古屋市は、名古屋市立大学が示した「因果関係なし」という解析結果を否定したわけではない。再解析の結果、「因果関係あり」という結果に変わったわけでも、「因果関係あり」とする別の解析があるわけでもない。

 「撤回」という言葉からは、名古屋市が「因果関係なし」という結論を翻したかのようなイメージを与えるが、全くそうではない。市が主体的に「因果関係なし」と主張していると受け止められると何かと困るから、解析結果に蓋をしてしまったというだけだ。クレームが来れば科学を封印する、そんな行政でよいのだろうか。

むらなか・りこ 医師・ジャーナリスト。東京都出身。一橋大学社会学部・大学院卒、社会学修士。その後、北海道大学医学部卒。WHO(世界保健機関)の新興・再興感染症対策チーム等を経て、医療・科学ものを中心に執筆中。京都大学大学院医学研究科非常勤講師も務める。