直木賞作家・赤瀬川隼さんが1985年に出版した小説集『ブラック・ジャパン』を読んだ時の衝撃は、それまで感じたことのない驚きと戸惑いを伴っていた。近未来小説の体裁を取ったその作品の概要はこうだ。

 ソウル五輪のマラソン競技、優勝のゴールテープを切ったのは、胸に日の丸を付けた、黒人選手だった。

陸上の全日本選手権、男子100メートルで優勝し、ポーズをとるケンブリッジ飛鳥(左)と3位に終わりうつむく桐生祥秀=6月25日、パロマ瑞穂スタジアム
陸上の全日本選手権、男子100メートルで優勝し、ポーズをとるケンブリッジ飛鳥(左)と3位に終わりうつむく桐生祥秀=6月25日、パロマ瑞穂スタジアム
 赤瀬川隼さんの慧眼に感服する以外ないというのが、それから31年経った、いまの素直な感想だ。スポーツ界全体に、赤瀬川さんの予見が現実となって広がっている。リオ五輪の代表を決める陸上の全日本選手権、男子100メートル決勝レースを制し、代表の座を真っ先に射止めたのは、桐生でも、サニブラウン・ハキームでも、山縣でもなく、彗星のごとく登場したケンブリッジ飛鳥だった。

 父親がジャマイカ人、母親が日本人。ウサイン・ボルトをはじめ、いまや陸上短距離界の頂点に立つと言っていいジャマイカの血を引く若者が、日本の星に躍り出た。大会直前になって、太ももの違和感から出場を見合わせ、その時点でリオ五輪出場の望みを絶たれてファンを落胆させたサニブラウン・ハキームに代わって、このような頼もしい新星が控えていたとは、多くの一般のファンは驚いたことだろう。それだけに、突如出現してケンブリッジ飛鳥への熱は急速に加熱し、一気に注目の的になった。

 恵まれた体躯、老若男女すべてを魅了するだろうルックス、凛とした姿勢、清々しく真っ直ぐなメディアへの受け答え、申し分のないニュー・スターの登場。いまや、初めて日本人で10秒の壁を破るだろうと期待されていた桐生も、ロンドン五輪で準決勝に進んだ実績を持つ山縣も、昨年の世界陸上で次代の星となったサニブラウンも一気にかすんだ格好だ。

 社会人1年目のケンブリッジ飛鳥が、ここに来て急に光を浴びたのには訳がある。大学3年まで、飛鳥はどちらかといえば100mより200mにスタンスを置いていた。ここ1、2年、100mにシフトした。サニブラウンの台頭に刺激を受けたのか。やはり自分の潜在能力は100mにあると目覚めたのだろうか。とくに今シーズンに入ってからの進境は著しい。若い才能は、ある時期、一気に化けることがある。飛鳥にとってまさにいまその時が訪れているなら、リオ五輪に向けて、さらに記録を伸ばして、一気に世界のファイナリストのレベルまで自分を導く可能性も密かに期待させる。この春からの成長曲線からいえば、一気に9秒台、さらには9秒9の前半、いやいずれは優勝争いさえも夢想させてくれる。飛鳥にその可能性がないとする根拠を探す方が難しいように感じる。

 戦わずしてリオへの道が消えたサニブラウンの胸中を思うと、これは胸が痛くなる。その悔しさ、苦悩が糧になるならば、この四人が中心となるこれからの日本短距離陣は史上かつてない、強力で楽しみな軍団を形成する。400mリレーでも、本気でジャマイカ、アメリカとの堂々勝負が思い描ける。これまでは想像しにくかった期待が現実となった。まさに、赤瀬川隼さんの予言通りの潮流だ。