野々村直通(開星高校前野球部監督・教育評論家)

 まずは“ゆとり教育”なるものが導入されたときのテーゼを紐解いてみたい。

 「暗記中心の知識の詰め込み教育や過度の受験戦争が“いじめ”“不登校”“少年非行”を誘発しているという批判のもと、偏差値教育の廃止を求めて…」とある。知識の詰め込み教育や過度の受験戦争は“ゆとり”の導入によって影を潜めたが、肝心の“いじめ”“不登校”“少年非行”が減ったのであろうか。否、である。学びたい子は学校の薄っぺらな教科書に辟易とし、ゆとりの時間にせっせと塾に通う。“ゆとり”という美名に踊らされた一方の子は、知識を得ることを渇望せず白痴化してしまう。

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 斯くして両者は以前にも増して学力格差を広げ、差別的要素を表出してしまう。知識があるから正しい判断ができるのである。“小人閑居して不善を為す”の例えの通りである。そして、「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、問題を解決する能力を育て…」と続くが、“生きる力を身につけさせる”などという美しい言葉に包含された偽善は“悪”に向かうだけである。

 そもそもこれから学ぶ子どもに、「自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動する」力など本来ないのであり、だからこそ学ぶのである。「勉強」という字は“強いて勉める”と書く。生きる上で必要な知識や経験は、大人が強制してやらせることに教育の真髄があるのである。最低限度必要とされる学問は、本来“やらされる”のである。

 私はかねてから、今の教育に欠けているものは「強制」と「競争」であると主張してきた。教師や大人が人生の先輩として、その経験の中から正しきことは信念をもって強制してやらせる。子どもは耐えて努力する。その過程で成長と進歩を身につけるのである。

 「教師は強制的な“指導”から“支援”へ」は日教組の常套句であるが、強く導くことなくして子どもの主体性など生まれない。知識があってこそ主体的討議ができるのである。1977年、「ゆとりの時間」導入。89年、「生活科」新設。98~99年、学習内容3割削減。「総合的な学習の時間」新設。2002年、完全学校週5日制実施。私はその間、教育現場にいたが、何のことはない、日教組が主導してきた“ゆとり教育”は教師が楽(ゆとり)をすることでもあった。「総合的な学習の時間」など何をしたら良いのか現場の教師は右往左往するばかりで、結局それは“遊びの時間”となる。何も知らない子どもたちは、規律も競争もない“ゆとり”の中で、どこまでも緩んだ人間として体のみ成長してしまう。子どもたちこそ被害者といえるのではないのか。