桃木至朗(大阪大学大学院文学研究科教授)

 入試の成績が人間の優劣を表し受験者の人生を決める、そのため学校教育の内容や方法は入試に縛られる、教育も入試も思考力より暗記を重視する(しかも覚える中身は国家が決めるという考えを支持する者が多い)というのは、東アジア諸国に共通する教育上の特徴である。

 ただし現代日本の教育と入試は、特に第2次世界大戦後の社会変動の結果、独特の強烈な特徴を帯びている。それは、暗記の対象が語句であって文章でないことである。高校はもちろん大学の入試でも、文章で解答することはおろか、問題文である程度長い文章を読ませることさえ、トップレベルにある一部の学校を除けば強く忌避されるのだ。科挙の伝統をもつ中国・韓国・ベトナムなどの諸国では考えられない事態であろう。

大学入試センター試験に臨む受験生たち=2016年1月、東京・本郷の東京大
大学入試センター試験に臨む受験生たち
=2016年1月、東京・本郷の東京大
 その直接の背景は、戦後に普及した指数化が容易な短答式ないし選択式の出題方法(現在ではマークシート試験)が、最小限の予算で多数の若者に対して効果的な教育・試験をおこなうという日本の開発主義的な国策に適合したことである。

 ただし中国・韓国・ベトナムやアメリカで、短答・選択式試験の一方で小学校からおこなわれている文章表現や討論の訓練が、日本でほとんど受け入れられない背景には、「論述式の試験問題では公平な採点ができない」、「論述式や面接試験は経済力や文化資本に恵まれた家庭の子どもにばかり有利である」、「そのうえ歴史の場合であれば採点が政治性を帯びるので避けるべきだ」などの、平等や中立性に関する特殊な考え方があることを理解しなければならない。また文章なしに語句だけで事を済ませようという発想は、科挙試験の背後にある儒教的インテリのものではなく、ゆっくり文章を操る暇などない戦場の武士や仕事の現場での町人・農民などの発想だろう。


偏った入試方法が「歴史離れ」生む


 1960年代以降の経済成長によって高校・大学教育の大衆化が実現すると、こうした教育と試験の方法を通じて、かなりの密度をもつ固定的な知識のパッケージが、少数のエリートに限らない大多数の国民に普及された。「日本史」「世界史」など歴史科目の知識もそこに含まれていた。一般にはほとんど認識されていないが、きめ細かい史料読解と、高度経済成長以後には世界の全域についてハイレベルな専門家を擁したことの2点において間違いなく世界一の水準をもつ日本の歴史学の実力も、そこで大きく貢献した。

 ただ上の方法による教育は、20世紀末以後には、受験競争の激化の中で本当に必要な基礎知識をいたずらに細かい膨大な知識の中に埋没させ、もともと不十分だった表現する力、討論する力の訓練をますます周縁化させた。
歴史の場合、常に独立ないし孤立した日本が真空の中で発展するかのような「日本一国史観」や「日本特殊論」にもとづく日本史、19世紀的な人類普遍のモデルとしての西洋史に圧倒的に偏った世界史などの教育と入試の骨格が変わらないまま、その他の内容が次々に接ぎ木された結果、「大学受験に必須の」知識やそのための教科書記述が増加しつづけ、青年の歴史離れを促進してしまった。特に世界史は、膨大なヨーロッパ史の暗記事項を温存したままで中東や東南アジア、アフリカなどの断片的な事項を増加させたため、それら新しく必要になった地域の理解はほとんど進まない一方で、大学入試の選択者数が激減するという皮肉な事態に陥った。

 入試で選択する予定のない科目の履修が手抜きになることもあり、日本の高校生の世界史理解は全体として後退の一途をたどっている。大学の歴史系専攻はと見れば、「自国にしか関心のない」多数の新入生が日本史を選び、外国史を志す新入生は圧倒的に「進んだ(エレガントな)西洋史」に進学して「ダサイ(遅れた、反日諸国が多いので不愉快な)東洋史」など見向きもしないという戦前以来の状況が、是正されないどころか最近ますます強まっている。