“結社”から“政党”に変身したイタリア共産党


 日本では、徳田球一氏がソ連から綱領とカネをもらってコミンテルン日本支部を設立した。要するにソ連の共産党の「日本支部」だったわけだ。のちに議長となる野坂参三氏は、ソ連に同志を密告したことが判明して日本共産党を除名された。共産党としてはソ連との関係がバレたから除名せざるをえなかったのだろう。

 イタリアでは共産党はソ連から、民社党はアメリカからカネが注ぎ込まれているといわれていた。社会主義インターが共産党排除を鮮明にしていたのは、欧州では共産党はソ連のヒモ付きという常識が定着していたからだ。

 イタリア政界の連立体制は50年ごろから冷戦が終わるまで続いた。この間、イタリア共産党は30~33%の議席を維持した。連立政権の目的は、第二党に躍進した共産党を絶対に政権に入れないとの一点にあった。イタリア共産党はソ連とは別の「独自の道」を強調したが、歴代代表はロシアに行って夏季休暇を過ごしていた。“ソ連との仲”を疑われるのは当然だった。

 ところが89年にベルリンの壁が壊され、91年には米ソ冷戦が終結する。こういう事態を迎えると、共産党排除の連立を続ける意味がなくなる。連立政党は政権を共有しているあいだにラジオ局の分配から公社、公団の利権を分け合うことまでやりたい放題。腐敗は極に達していた。日本なら、金権腐敗の田中角栄政権が40年も続いた状況だった。ちなみに冷戦後、政界再編が行なわれるが、戦後を背負った光栄ある「キリスト教民主党」は雲散霧消してしまう。

 イタリア共産党は冷戦の終焉を予感して、ベルリンの壁が壊されるころ「共産党」の看板を変えて「左翼民主党」と名を変える。これは共産党と名乗っているかぎりはソ連との暗い過去を清算できないからだ。何十年もお預けにされた政権に就きたい、と党全体が熱望したのだろう。党名変更とともに共産党の“原理”ともいわれた党首独裁もやめ、党首を党員投票で選ぶ革命的変革を行なった。続いて民主集中制という党独自の独裁方式をやめた。さらに政策は党員の多数決で決めることになった。一言でいうと“結社”から“政党”に変身したのである。

 この点、日本共産党は政党を名乗っているが実態は「古い共産党」そのものだ。宮本顕治時代、日本共産党が“開かれた党”になるというので、立川公会堂の大会に取材に行ったことがある。あらゆる議案に対する賛否は最右端に座った代議員が署名簿を左端の席まで回して採決する。むき出しで回すのだから、「反対」と書いたら誰が書いたかひと目でわかる。これを民主集中制というが、世間の常識では“強要”とか“独裁”というのではないか。

 イタリア共産党は共産党の原理を捨てて、結社から政党に踏み出し、天下を獲った。