原口泉(志學館大学教授)


 熊本城攻めに敗れた西郷隆盛は、「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」とつぶやいたという。また、司馬遼太郎は「西郷軍にとって熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった」(『街道をゆく~肥薩の道』)と書いているが、熊本城は日本国政府そのものだったのである。

 加藤清正が天下無双の堅城を築いたのは1607年、薩摩の島津押さえのためとも、豊臣秀頼を守るべく徳川氏と戦うためともいわれる。復元された本丸御殿の「昭君の間」の華麗さを見れば一層その感がする。
西郷隆盛の肖像画(国立国会図書館蔵)
西郷隆盛の肖像画(国立国会図書館蔵)
 西南戦争で熊本城攻撃を指揮した桐野利秋は、「百姓兵の熊本城など青竹一本で足りる」と豪語したが落ちなかった。西郷軍の攻撃直前、熊本城の天守は不審火で焼失したが、熊本鎮台司令長官の谷干城が焼き払ったといわれる。熊本城は石垣だけ守り通したのである。

 しかし、この難攻不落の石垣も今回の地震では、その3分の2の53か所が崩落した。全体の3割の積みなおしが必要で、復旧には10年以上、文化庁は石垣修復費を354億円と試算している。また、石垣の耐震技術は確立されていない。熊本城は1625年の大地震でも天守をはじめ城内の瓦や建具がすべて落ち崩れ、50人ほどの死者が出る被害を受けたが、今回は日本の城郭がかつて経験したことのない規模で損壊している。

 細川氏の時代に被害にあうたびに何度も修復されてきたのは、熊本城が肥後国、熊本県のシンボルであり、宝であり、誇りだったからである。昭和35年に鉄筋で天守が復元されたときも、「城のない熊本はあり得ない」という声が圧倒的に多かったという。

 6月1日、満身創痍ながら、約1か月半ぶりに熊本城がライトアップされたとき、市民は「心に光がともった気がする」と語っている。熊本在住のSF作家、梶尾真治による「それでも熊本城はそこに建っていた」(新潮45)が県民の心情を吐露している。

 ところで、皮肉なことに熊本城は薩摩の人にとっても精神的支えであった。薩摩は肥後を仮想敵として、領国を針ネズミのように閉ざしてきた。ことわざにも「汝の敵は汝をして賢人たらしむ」とある。薩摩武士は戦国時代から「いろは歌」の「敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかへして 身をもたしなめ」と諳んじてきた。敵こそが、自分の先生であるという意味である。