小和田哲男(静岡大学名誉教授)

 戦国武将の中には「公」の字をつけてよばれる武将が何人かいる。山梨県の武田信玄公、静岡県の徳川家康公などはその例であるが、加藤清正はさらにその上をいっている。「せいしょこさん」と、清正公(せいしょうこう)に、さらに「さん」をつけてよんでいるのである。それだけ、熊本市民に慕われていることがわかる。熊本を統治していた時代の長さでいえば、加藤家改易(かいえき)の後に入った細川家の方がはるかに長いが、細川家の歴代の殿様より、清正一人の方が存在感がある。

熊本城の加藤清正像
 それは、熊本城を築いたのがほかならぬ清正だったからである。日本三名城の一つに数えられる熊本城は、たしかにわが国を代表する名城であり、「築城名人」とか「土木の神様」などといわれる清正が、自分の持てる力をすべて投入した芸術品といってよい風格をただよわせている。扇の勾配といわれる石垣のみごとな曲線は見る者を魅了してやまない。

 清正といえば、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにおいて、先陣を切って柴田勝家軍と戦い、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられ、また、文禄・慶長の役のときの朝鮮における虎退治のエピソードが広く知られていて、どちらかといえば猪突猛進型の武将と思われているが、意外と気配り上手でもあった。

 天正15年(1587)の秀吉による九州攻め後、論功行賞で肥後一国を与えられたのは佐々成政だった。ところが、成政は検地を強行したため、検地反対一揆が起き、その失政をとがめられ、切腹させられ、代わって、北肥後半国に入ったのが清正だった。ちなみに、南肥後半国に入ったのは小西行長である。清正は、成政の失敗を見ているので、力による支配ではなく、領民の心をつかむための施策に乗り出している。その一つが堤防工事だった。

 北肥後には、菊池川・緑川・白川といった3本の大きな川が流れており、その3本の川ともよく氾濫した。それは、それら河川の流域を上流から下流まで一人で押さえるような領主権力がなかったからであった。流域は荒れ放題だったのである。そのようなところに乗りこんだ清正が、はじめに手をつけたのは、それら3本の川の堤防工事であった。自分の居城熊本城の工事より前に堤防工事に着手しており、これは人心をつかむ上でも効果的だった。佐々成政のときのような抵抗を受けることがなかったのである。このとき、清正によって築かれた堤防は清正堤といわれ、その一部は何と、400年以上たった今も機能しているのである。