別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より


淺川道夫(軍事史学会理事・日本大学教授)



樺太・千島の日本帰属は明白


 歴史用語として知られる「蝦夷地(えぞち)」とは、現在の北海道だけではなく、その北方に位置する樺太や、択捉島・国後島などの千島を含む、日本の領土の総称である。その帰属はすでに江戸時代には明らかになっており、徳川家康から慶長九(一六〇四)年に「渡島(おしま)一帯の地及び唐太」の直轄を命ぜられた松前氏が、幌泉(ほろいずみ)を境に以南を「口(くち)蝦夷」、以北を「奥蝦夷」と称し、藩領として支配していた。

 松前藩では、樺太の調査を数回にわたって実施し、元禄十三(一七〇〇)年には同地域の地名二十二カ所を挙げた「松前島郷帳」を幕府に提出しているが、当時まだ樺太の開発・経営にはほとんど手が着けられておらず、実効ある支配には至っていなかった。また千島については、享保年間(一七一〇年代)から松前藩の領地となっていたが、択捉・国後両島は少数の島民が原住民と雑居して平穏に漁業を営む辺境の地域であったことから、藩の強固な支配が及ぶことなく、なかば放置されている状態だった。なお、今日「北方四島」に含めて議論される色丹島・歯舞諸島は、もともと北海道の本島に属する地域であり、歴史的にも千島に含まれるものではない。

 本稿では、現在も我国外交にとっての懸案事項となっている北方領土問題に関連して、ロシアの南下以前に日本が「蝦夷地」をどのように管理していたのか、また日露両国間での国境画定がどのようになされたのかを、歴史的に振り返ってみたい。

ロシア南下に江戸幕府が防衛体制


 ロシア人が「奥蝦夷」地域に進出しはじめたのは、十八世紀半ば以降のことである。ロシア人の同方面への進出は、ベーリング海軍中佐の率いる探検隊がカムチャッカを基地として享保十七(一七三二)年におこなった東方調査を皮切りに、元文四(一七三九)年のスパルベング海軍中佐を隊長とする調査隊の活動を経て、次第に活発化して行った。

 そして明和年間(一七六〇年代後半)を迎える頃には、ロシアは得撫島(うるつぷとう)以北の千島諸島を征服して「クリル諸島」と命名し、各島に酋長を置いて「一男一狐貢納の制」を定め、原住民に毛皮の貢納を命じた。また樺太については、安永九(一七八〇)年にラペルーズの率いるロシア探検隊の船二隻が沿岸調査に訪れたのを手始めに、寛政元(一七八九)年にも沿岸測量のためのロシア船来航があり、ロシアの領土的野心は十九世紀に入って顕在化することとなった。

 こうしたロシアの南下政策に対して、仙台藩医の工藤平助は『赤蝦夷風説考』を天明三(一七八三)年に著し、蝦夷地の開発と対露貿易の促進を説いて、老中田沼意次(おきつぐ)に献上した。またこれに先立つ明和八(一七七一)年、長崎のオランダ商館長がベニョウスキー伯(カムチャッカから亡命したポーランド貴族)から受け取った書簡の中で、ロシアが蝦夷松前を攻撃するための陰謀を企てている旨の警告がなされたこともあり、幕府としても蝦夷地の現状を把握する必要に迫られていた。
田沼は、天明五(一七八五)年に普請役山口高品らを巡検使として蝦夷地に派遣し、実情調査をおこなわせた。しかし翌天明六年に田沼が失脚すると、田沼を中心とした蝦夷地開発計画は中止のやむなきに至った。ただし巡検使の一員であった最上徳内はその後も単身で千島の調査を続け、大石逸平も樺太の調査を続行して情報収集に努めるなど、ロシアの蝦夷地進出に対する警戒は続いた。

 田沼失脚後、老中首座となった松平定信は、寛政の改革を通じて田沼政治の粛正を図って行くが、蝦夷地の防衛についても、その開拓と防備を幕府主導で推進しようとしていた田沼の方針を大きく転換した。すなわち松平定信の打ち出した方針は、蝦夷地の防衛は藩領を持つ松前藩に任せ、幕府は津軽海峡以南を固めて有事に備えるというもので、これは当時の幕府の財力や軍事力から見て現実的な施策であった。
ラクスマン一行が乗船した帆船エカチェリーナ号(根室市所蔵)
ラクスマン一行が乗船した帆船エカチェリーナ号(根室市所蔵)
 こうした折柄、ロシアの女帝エカチェリーナ二世によって最初の遣日使節に任命されたラクスマン(陸軍中尉)が、寛政四(一七九二)年に日本人漂流民大黒屋幸(光)太夫・磯吉らを伴って根室へ来航し、漂流民送還と引き換えに通商を要求した。

 幕府は松前に目付石川忠房・村上義礼を宣諭使として派遣し、ラクスマンとの交渉にあたらせた。石川ら宣諭使は、漂流民を受け取る一方で、ロシア使節に信牌(長崎入港許可証)と諭告書を与え、通商を求めるならば長崎に行くよう指示した。結果的にラクスマンは、日本との通商を開くという目的を果たせぬまま、寛政五(一七九三)年に退帆した。
通商を要求する初のロシア遣日使節として根室に来航したラクスマン一行。左から3人目が光太夫、右端がラクスマン(天理大学附属天理図書館所蔵)
通商を要求する初のロシア遣日使節として根室に来航したラクスマン一行。左から3人目が光太夫、右端がラクスマン(天理大学附属天理図書館所蔵)
 幕府はラクスマンの来航をうけ、海防掛を新設して松平定信をその職に任じ、鎖国以来初めてといえる海防政策に着手した。松平定信は寛政五年一月、蝦夷地関について次のように建議し、将軍徳川家斉の決裁を得た(渋沢栄一『楽翁公伝』)。

・蝦夷地の支配は、従来通り松前藩に任せる。
・蝦夷地に渡航するための陸奥沿岸の要衝を天領とし、そこに「北国郡代」を設置する。
・有事の際は、南部・久保田両藩に出兵を命じて対処する。
・洋式軍艦を四、五隻建造し、その半数を北海警備に充てる。

 このような基本方針を踏まえ、幕府は、南部藩から三百七十九人、津軽藩から二百八十一人の兵力を動員し、松前警備を担当させた。しかし松平定信が同年七月に老中の職を退くと、こうした蝦夷地防衛の基本政策は中止の余儀なきに至った。ただし幕府としても、蝦夷地の防衛を具体化するための代案が必要であり、寛政十年には目付渡辺久蔵らに蝦夷地調査を命じて、新たな政策を立案するための情報収集に乗り出した。

 これにより総勢百八十人に及ぶ調査隊が編成され、東西蝦夷地のほか択捉島・国後島への巡検が行われた。この時、択捉島に渡った近藤重蔵は「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を建て、同島が日本の領土であることを示した。翌寛政十一年、幕府は東蝦夷を上知して天領とし、南部・津軽両藩の兵力を駐屯させて外圧に備えるという施策に踏み切った。

 次いで享和二(一八〇二)年、幕府は蝦夷地奉行(程なく箱館奉行と改称)を設置すると共に、東蝦夷地を「永久上知(あげち)」として、南部・津軽両藩に「永々駐兵」を命じた。こうして蝦夷地防衛の態勢を日本側が逐次整えつつある時、ロシア使節レザノフの来航を迎えることになった。