別冊正論25号『「樺太-カラフト」を知る』より


渡辺国武(南樺太復帰同盟会長)




御挨拶


 この度、平成十二年四月を迎えて社団法人「全国樺太連盟」は機関紙「樺連情報」六百号記念として、昭和二十三年十二月十五日刊行の第一号復刻版を「折り込み資料」として配布してくれました。

 私はこれを見て、連盟の別動隊である「南樺太復帰同盟」も、その成り立ちから折にふれての対外活動など、南樺太問題が解決されるまでは樺太引揚者の子孫にも、語り継がれるべきではないかと考えるようになってきたのであります。

 幸いにも、二十年前「日中友好協会」会長故岡崎嘉平太氏の主宰されていた「国際問題研究会」の依頼を受け、講演した時のことを思い出しました。ここに、その講演記録と関係資料の集録を発表することとした次第であります。
平成十二年六月 九十六翁 渡辺国武

樺太返還問題と国際関係


南樺太返還期成同盟総本部長
           渡辺国武
   (南樺太復帰同盟会長と改称)

 ただいまご紹介にあずかりました南樺太返還期成同盟の総本部長の渡辺国武でございます。

 まず、私と樺太の関係を申しあげて、なぜ七十八歳にもなる老人の私が現在そういうことをやっているかということをおわかりいただくために、私と樺太のつながりについて申しあげます。私は明治四十四年、七歳のときに母につれられて樺太にまいりました。私の父は明治三十八年、樺太が日本に帰ってくると同時に北海道から樺太に行っております。その後小学校二年のときに、私は母につれられて樺太にまいりまして、当時、樺太に一つしかなかった樺太庁中学校に大正五年入学、大正十年に卒業しました。その後、樺太の各地に中学校ができたために、その町の名前を入れて、大泊とか真岡という名前を入れましたが、私がはいったときは樺太庁中学校でございました。

 卒業と同時に家庭の事情ですぐに王子製紙に入社し、ひきつづき王子製紙が樺太の電気事業を手掛けることになり、そちらの会社に出向を命じられ、昭和二年の秋にそちらの方にまいりまして、そこに終戦までおりました。その当時は樺太電気といっておりましたが、戦時法令として昭和十八年に配電会社法ができ、現在の東京電力が関東配電、東北電力が東北配電というようになったときに樺太電気も樺太配電というようになりました。それは国策会社であり、王子製紙の子会社という形ではないので、そのときに王子製紙を退職して樺太配電の役員として最後は総務部長をおおせつかってやっておりました。

 ですから昭和二十二年に引揚げてくるまで、仕事の関係その他で日本内地にはきておりますが、七歳のときから終戦の四十一歳までの間、樺太で過ごしました。したがって樺太で結婚し、子供も樺太で生れました。しかも、中学校を卒業してから王子製紙の関係で終始してきました。

 引揚げてきましても、このような樺太との深い結び付きがやはり私の血となり肉となっているのでございましょうか、いまでも樺太は返してもらわねばならないというような情熱をもってやっている次第でございます。

全国樺太連盟の設立


 終戦後、南樺太在住の日本人の緊急疎開者と昭和二十一年後半より正式の引揚者が多く定住している北海道で、樺太引揚者団体連合会結成の準備がすすみ、その後昭和二十二年十一月にシベリアに抑留されていた樺太における指導者の一人である樺太庁第一経済部長の白井八州雄氏がソ連のエラブガ収容所から帰ってきました。それを機会に全国樺太連盟が設立されることになり、昭和二十三年四月十九日に設立の発起人会を開き、二十三日に創立総会が開かれました。八月一日に社団法人全国樺太連盟設立の許可の申請をしております。そして昭和二十四年九月十五日、当時の林譲治厚生大臣から設立の許可を得ております。
全国樺太連盟と南樺太返還期成同盟(南樺太復帰同盟に改称)の本部が入り、元住民らの心のよりどころだった「樺太会館」。平成25年3月に売却され、樺太連盟は近隣ビルに入居した。写真は昭和40年4月の竣工時
全国樺太連盟と南樺太返還期成同盟(南樺太復帰同盟に改称)の本部が入り、元住民らの心のよりどころだった「樺太会館」。平成25年3月に売却され、樺太連盟は近隣ビルに入居した。写真は昭和40年4月の竣工時
 本部は、港区麻布飯倉片町十二番地、現在は番地が変更になり麻布台三丁目一番二号樺太会館ビル内にあります。設立の目的は①樺太引揚者同胞を援護し更正せしめ福利をはかること。②残留同胞の引揚促進を運動すること。③樺太に関係あるもの、および他の団体との連絡協調をはかること。④樺太関係者の育英に関すること。⑤その他。というようなことでございます。