稀勢の里は大相撲名古屋場所13日目で3敗し、綱とりが事実上、消えた。14日目に白鵬を破り、千秋楽の結果次第では横綱昇進の声も上がりかねないムードもあったが、日馬富士の優勝で綱取りは来場所に持ち越された。大一番を迎えるとガチガチに硬くなる弱さを、今場所も克服できなかった。

 中学卒業後に角界入りし、十代の頃から「未来の横綱候補」と期待を浴びていた稀勢の里もすでに30歳。体も技も申し分ないように見えるが、勝負どころで力を発揮できない課題が、横綱の地位から遠ざけている。この原因はどこにあるのだろう?

日馬富士が優勝し、ガックリ花道を下がる稀勢の里=7月24日、愛知県体育館
日馬富士が優勝し、ガックリ花道を下がる稀勢の里
=7月24日、愛知県体育館
 精神的な弱さといえば簡単だが、向こうっ気の強そうな眼差し、強い時は強い稀勢の里自身、大事な一番でなぜこれほどまでに牙を抜かれるのか。ただ心が弱いという理由では説明がつかない気がする。稀勢の里自身、自分に腹が立つ以上に、途方に暮れているのではないだろうか。

 一方、白鵬は荒々しい相撲に歯止めがかからない。立ち合いのかちあげは、相撲で認められている攻めには違いないが、残忍な印象が否めず、強い白鵬に喝采を送るファンがいる一方で、それ以上に、武士の情けのなさを嘆き白鵬に愛情を感じられない相撲ファンも増えているようだ。

 少し前までは、「双葉山の後を追い、『後の先』の境地を究める」と口にしていた白鵬が、「後の先はもうやめた」と公言し、勝つためには『先の先』が確実とばかり、荒っぽいかちあげで挑戦者たちを震え上がらせている。強さに品格が乏しいためか、白鵬の勝利はこのところ感動を呼び起こさない。白鵬が勝てば勝つほど、ひとりファンから遠ざかっているようにも感じる。それはかつての大鵬や北の湖が「強すぎて憎らしい」と言われた気分とまた違うものに感じる。

 稀勢の里の心の弱さ、白鵬の強さは、対極にあると感じるのが普通だろうが、私には同じ根っこを持つ、現在の大相撲の深刻な課題のように思われる。

 白鵬の目指した双葉山の境地は、まさに相撲道を究める道の先にある、勝負を超えた高み深み。それこそ、相撲が単なるスポーツではない神事だと言われる存在の原点にも通じる。

 残念ながら、いまの大相撲は「勝つか、負けるか」だけを問われるスポーツに落ちぶれてしまった。相撲がスポーツと違うというのは、取組みを神様にささげたという歴史的な背景だけではない。「どちらが先に土俵を割るか、土俵に身体が着いてしまうか」というバロメーターでなく、「それ以前に相手を捉え、相手を支配して勝負は決まっている」という勝負の綾を感じているかどうか。