「ファミコン世代」はコミュ障? 子供をダメにした真犯人はほかにいる

『熊代亨』

読了まで8分

熊代亨(精神科医)

 ファミコンをはじめとするテレビゲームは、漫画やアニメと同様、「若者をダメにした真犯人」としてたびたび槍玉に挙げられてきました。

 誰とも話をせずファミコンで遊び続ける子どもの姿は、昭和の大人には異様と映ったでしょうし、実際、一人でゲームばかりしていては健全な成長も難しくなるでしょう。ゲームそのものが悪影響をもたらさなくても、子ども同士で遊ぶ機会の少ない毎日を過ごしていれば、そのぶん、コミュニケーション能力を育むための機会や経験も少なくなってしまうからです。
 
 しかし、本当に「ファミコンが若者をダメにした」のでしょうか。

 ファミコンが社会現象となった1980~90年代前半は、受験戦争が最も厳しい競争率を記録し、子どもを塾や稽古事に通わせるのが当たり前になっていった時代でした。

 一人でファミコンばかりしていればコミュニケーションの機会が減ってしまうのと同じように、机に向かって勉強ばかりしていても、それはそれでコミュニケーションの機会が減ってしまいます。ところが当時の大人たちはといえば、ファミコンがもたらす悪影響には敏感でも、「将来のために」と称して子どもを勉強漬けにしたり、子ども同士で遊ぶ機会を奪ってしまったりすることの弊害には鈍感でした。

 職業柄、私はコミュニケーションへの苦手意識を抱えたまま大人になってしまった人に頻繁に出会いますが、テレビゲームや漫画やアニメに溺れていたような、いわゆるオタク然とした人はけして多数派ではありません。それより多いのは、子ども時代に友達と遊ぶ機会を制限され、勉強や読書や稽古事を強いられて過ごした来歴――それこそ、秋葉原連続通り魔事件の犯人の子ども時代を、いくらか穏当にしたような――を背負った人です。

 思うに、子どもの心理・社会的な成長機会を奪ってしまうという点では、一人でファミコンばかりやるのも、一人で勉強や読書ばかりやるのも、弊害はあまり変わらないのではないでしょうか。
「ファミリーコンピュータ」本当のターゲット

 ファミコンは、発売されるや子どもたちを引きつけ、やがて一大ブームとなりました。しかし私がはっきり覚えているのは、はじめのうち、ファミコンは「一人で黙々と遊ぶもの」ではなく、「娯楽の王者だった」わけでもなかったということです。

 ファミコンの正式名称は「ファミリーコンピュータ」。その草創期のCMやソフトのラインナップを眺めると、ファミコンが子どもだけでなく親をもターゲットにした商品だったことが伺えます。実際、70年代の『インベーダーゲーム』を覚えているお父さんが子どもと一緒にファミコンを遊ぶ…という家庭も少なくありませんでした。

 放課後も、みんなが一人でファミコンをやっていたわけではありません。鬼ごっこやケードロといった外遊びの魅力は健在で、ファミコンをやるにしても友達同士で集まって遊ぶことが多かったと記憶しています。二人用~四人用のゲームはとりわけ重宝しましたし、『ゼビウス』や『スーパーマリオブラザーズ』にしても、専ら友達とお喋りしながら遊んでいました。

 当初、「一人でテレビゲームを遊ぶ」という習慣は子ども社会に浸透しきっておらず、ファミコンとて、従来の「遊びはみんなでやるもの」という習慣に沿って遊ばれがちだったのです。

 こうした過去を踏まえると、ファミコン自体が子どもの一人遊びをもたらしたわけではなく、塾や稽古事で放課後のスケジューリングが難しくなり、友達同士で集まって遊ぶ機会が少なくなった結果として、一人遊びに最適な玩具としてのファミコンが“発見”されたという側面もあったように思えるのです。
昭和63年2月、ファミコンソフト「ドラゴンクエスト3」の発売開始で東京・池袋の家電量販店に長蛇の列を作った
 ファミコンブームも後期になると、『ドラゴンクエスト』『ファイナルファンタジー』といった、一人で長時間遊びやすいゲームがセールスの中心を担うようになりました。その後、携帯ゲーム機『ゲームボーイ』が発売され、これも大ヒットしましたが、『ゲームボーイ』はディスプレイが小さく、はじめから一人で遊ぶことを前提にした設計でした。しかしこの頃にはもう、子ども社会のうちに「一人でテレビゲームを遊ぶ」という習慣が定着していたため、一人でしか遊べないことは問題とはなりませんでした。

 『プレイステーション』などの後継機にも恵まれたこともあって、「一人でテレビゲームを遊ぶ」習慣は子どもから大人へと広がっていきました。今では老若男女が通勤電車のなかでゲームを遊び、そのことを非常識と咎める人もいません。それほどまでに、私達は一人でテレビゲームを遊ぶことに抵抗を感じなくなったのでしょう。
「コミュニケーション社会」日本の子どもたち

 ベネッセ(http://resemom.jp/article/2015/11/25/28135.html)や第一生命(http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/ldi/news/news0808.pdf)の調査によると、子ども同士が集まって遊ぶ機会が乏しい状況は、ファミコン世代のそれより進行しているそうです。放課後は塾や稽古事に忙しく、路上や空き地での外遊びはもとより、公園でのボール遊びすら忌避されるようになった現状では、致し方のないことでしょう。

 しかし、そうだとしたら、子ども同士は一体どこでどうやって接点を持ちあい、コミュニケーション能力を育てていけば良いのでしょうか? 「学校や家庭、稽古事でコミュニケーション能力を育てればいい」と言ってしまうのは簡単ですが、現状でも学校の先生がたは手一杯ですし、学童保育を巡る状況には厳しいものがあります。家庭や塾や稽古事を介して、すべての親がコミュニケーションに富んだ時間を子どもに提供できるとも思えません。SNSやLINEが提供するコミュニケーションも部分的には役立つでしょうが、幼いうちは適切に使いこなすのが難しいうえ、表情や身振り手振りを伴ったコミュニケーションの鍛錬の機会とはならないので、それだけでは不十分です。

 産業全体に占めるサービス業の割合が高く、人的流動性も高くなった日本社会は、多くの人に高水準のコミュニケーション能力を求められる、いわば「コミュニケーション社会」になりました。にも関わらず、子どもが集まって遊ぶ機会が減り、子ども時代のうちにコミュニケーションの経験を積み重ねにくくなってしまったわけですから、社会のニーズに即したコミュニケーション能力を身に付けるための難易度は、今まで以上に高くなっていると言わざるを得ません。

 数十年前まで、子どもが放課後に群れ集って遊んでいればコミュニケーションの経験蓄積は無料で達成できるものでした。しかし今はそうではありません。子どもを遊ばせておきたいだけなら、携帯ゲームやスマホアプリで遊ばせるほうが、よほど簡単で安くつきますが、それではコミュニケーション能力を育てる機会が足りなくなってしまいます。

 「ファミコンが悪い」「携帯ゲーム機が悪い」「スマホが悪い」と言うのは簡単ですが、この問題を遡って考えるなら、子どもがそうした一人遊びを余儀なくされ、そのことに疑問を差し挟む人も少なくなった現代の社会環境に意識を向けるべきではないでしょうか。

この記事の関連テーマ

タグ

ポケモンの原点 ~ファミコンブームの社会学

このテーマを見る