岩渕美克(日本大学法学部教授)

 猪瀬元都知事、舛添前都知事の一連の政治とカネをめぐる辞任劇を受けての、都知事選での反省は、著名な候補というだけで信頼し投票してしまえば、思わぬスキャンダルに見舞われるということではなかったのか。その最中に、今回の石田純一さんの出馬騒動が起こった。これまで政治的な活動は、目立ったところでは昨年の国会前の安保関連法案に反対するデモくらいではなかったか。もちろんキャスターなどの経験から、社会的な出来事に強い関心がおありだろうことは理解できるが、あまりに唐突な記者会見には困惑した。しかも週が開けたら、出馬断念の会見である。単に世間を騒がせただけ、と言ったら言い過ぎだろうか。せめてもう少し政治的なブレーンでもいれば、違う道を模索できたのかもしれないと思うと、少し残念な気もしないわけではない。

7月11日、東京都知事選への出馬を断念することを表明し、
記者会見する石田純一
 これを受けた野党が、どこまで本気かはわからないが、統一候補としようという考えが頭に浮かんだのではないだろうか。参院選での野党統一候補の発想を引きずること自体が、必ずしも理解できない。ましてや蓮舫氏を担ごうとする思惑にも賛成しかねる。ただ単に勝てる候補者というだけで、そこに乗ることは舛添前都知事の場合とまったく同じだからである。そこから何かを学んだのではなかったのか。知名度に頼る戦略は、候補者名を自署する日本の選挙においては理解できないわけではない。だからといって有名であれば、名前が知られていれば、それだけで推薦できる候補者と言えるのだろうか。

 そもそもタレント候補と言われるテレビなどの著名人が選挙で重宝されるようになったのは、参議院が採用していた「全国区」という制度があったからである。17日間という短期間で、日本全国を遊説することなど不可能だ。規模は違うが、アメリカ大統領選挙が1年かけていることから考えても、時間が足りないことは確かである。前述したように自署式の投票方法では、まず名前を覚えてもらうことが先決である。それゆえに、参議院、とりわけ全国区の議員は、職業組合などの組織を背景に立候補する職能団体出身者や知識人などの当選を図れることから「良識の府」などという呼ばれ方をしていたのである。

 しかしながら、比例代表制導入に伴う政党化の進展とともに、議席を確保していれば後は党の指示に従えばいいと言わんばかりの人数合わせともいえるタレントに白羽の矢が立つことになった。人気のあるタレントや芸能人を立てれば、少なくともファンは投票してくれるだろうとの思惑も働いていたようである。政治経験も関心もない芸能人が立候補するようになり、政党が公認するようになったのである。名前を覚えてもらうという努力が必要ないということは、その期間の短さもあり、圧倒的なアドバンテージになる。政党の人数合わせからすれば、逆に政治に強い関心がないほうがいいのかもしれない。でも、その思惑は有権者を軽んじていることにならないだろうか。